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梟翁夜話 №108 [雑木林の四季]

 「林檎の独り言に絶句するの記」

      翻訳家  島村泰治

嚥下機能の維持と云へば大袈裟だが、まあ喉慣らしと云ふところか、近頃自前のセットを組み上げてカラオケ伴奏を仕立てては唄ふ習慣が根ざしてゐる。好きな歌を唄ふ楽しみは格別で、凝りが過ぎて昨今は自前のホームぺージに「戯れ唄草紙」と銘打って喉慣らしの成果を披露すらしてをる。ひと迷惑な話だが、ネット文化に便乗してのお遊び程にあしらって下され。

さて、今日はこの喉慣らしが定番の日、先ずはコーリューブンゲン代わりに用いている童謡集を復習(さら)いながら「りんごのひとりごと」に辿り着く。そこまではテンポやリズムやピッチの喉慣らしで、心地よく唄ってゐたが、ここで情感を込める段になって歌詞を目で追った。ご存知、摘み取られた林檎が箱詰めされ街の店先に並べられるまでのしっとりした物語だ。

筆者は頗(すこぶる)る付きの林檎好き、とくに紅玉には目がなくて例年青森の林檎農家から送って貰って木取りを賞味してゐる。聞けば紅玉は近年稀とか、確かに店に並ぶ数も少ない。甘味一方の、中には蜜などを仕込む奴も蔓延(はびこ)っていて、根っからの林檎好きにはいまは受難期なのだ。

さて、「りんごのひとりごと」の話。

♪私は真赤な りんごです
お国は寒い 北の国
りんご畑の 晴れた日に
箱につめられ ・・・♪

何の心づもりもなく唄い始めてワンコーラスを過ぎた頃、間奏を数えながら二番の歌詞に目が走る。いま思えばそれがいけなかった。唄い始めたはいいが、その箇所に来てぐっと声が詰まり、何と、絶句して伴奏だけが空で先に行った。

♪くだものお店(みせ)の おじさんに
お顔をきれいに みがかれて
皆んなならんだ お店先
青いお空を 見るたびに・・・ ♪

・・・りんご畑を思い出す、という続きの部分で声が詰まった。奇想天外な出来事、われを疑った。巷にお涙頂戴の歌詞は星の数ほどあり、それに乗せられて唄ひ込むなどはよくあることだが、童謡を唄ひながら絶句するとは。伴奏を止め、その先を唄ふことなく黙想した。

林檎は確かに好きだ、律儀に紅玉を送ってくれる林檎農家の人たちへの感謝の念は並々ならぬ。歌詞の流れに林檎たちの想ひが滲んでゐる。それにしても唄ひながら絶句する心象や如何。黙想しながら、時ならず己れの心理分析を試みた。絶句と云へば、筆者は馬の歌を唄ひ切ることが滅多にない。子供の頃にニュース映画で観た軍馬たちの末路(まつろ)が常に連想されて、変哲もない馬の歌さえも思ふやうには唄へない。深層に馬たちへ感謝と哀れみが綯い交ぜになった心理があるらしい。それが林檎にもあると云ふのは飛躍に過ぎる。だが、林檎を果物の王とさえ思ふ身には、とくに紅玉への愛着と愛感は只者では無い。それが件(くだん)の林檎農家への感謝が増幅されて絶句したのか?

右往左往した時ならぬ黙想は、鯔(とど)のつまり積年症候群の何かであらうとの結論に辿り着いた。平たく言えば、歳を取ったが故の感傷だらうと云ふ穏やかな思ひだ。諸々(もろもろ)の後悔を踏まえて、ものへの感謝が年毎に深まる。夜蜘蛛(よぐも)に限らず虫たちを惨めにする気持ちは疾(と)ふに萎えた。広く生命体への愛着、恋着は歳を重ねるごとに強まってゐる。

それら一連の心情は、明らかに積年症候群の症状だ。数えで米寿の身には、随所にその症状が顕著だ。書きものの一字一句が生きてゐるかに思へる不可思議。これはこの歳に至ってこそ味はへる心情だ。いま思えば、林檎の独り言に絶句したわが身がひどく愛おしい。


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