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海の見る夢 №28 [雑木林の四季]

       海の見る夢
          -ショスタコーヴィチのワルツー
                     澁澤京子

 「日本の桜はほとんど実がつかないけど、ロシアの桜は実がなるんです。」庭のライトアップされた桜の花をぼんやり眺めているときに、隣から話しかけてきたのはロシア人女性Tさん。いつも坐禅するお寺の『花見の会』の夜。Tさんは大学の先生で日本文化に造詣が深い。琵琶語りがとても好きでよく聴きに行くという。(平家物語の滅亡の話は、革命、スターリン体制、ペレストロイカといった困難な歴史を経てきたロシア人にとって、何か訴えるものがあるのだろうか?)ロシアでは季節になると市場はサクランボであふれ、日本よりも安価に手に入るので各家庭ではキロ単位で買うのだそうだ。食べきれなかったぶんはジャムにするという・・丸いテーブルに赤いチェックのテーブルクロス、天井近くが煤けたようになっている漆喰の壁、レースのカーテンのかかった窓と古い時計・・私は山盛りのサクランボの大皿の置いてあるロシアの温かな家庭の食卓を夢想したのだった・・

ロシアにもウクライナにも、私たち日本人によく似た、滅びゆくものに対する美意識と情緒があるのだろうか。

テレビで観たプーチンの側近たちとの会見。やたらと広い、白い大広間に赤いじゅうたん。側近たちと玉座に座るプーチンとの間は、子供が徒競走できるくらいの距離がある・・権力を誇示するためには距離というものが必要なのかもしれない。プーチンの孤独が際立っていた。

ロシア革命で皇帝が倒され、社会主義革命を起こした側が権力を握ってから、今度はトップの人間が皇帝以上に支配力をふるうのって、まるでウクライナ人作家ゴーゴリの『外套』のようではないか。被害者の抑圧されたルサンチマンが反転して、今度は加害者以上に横暴になるというのはどこでもおこることで、ルサンチマンは暴力の源にもなり、渇望とは権力なのである。

アカーキー・アカエヴィッチは、いつも着古した外套を着ている目立たなく冴えない下級役人。ある日、ついに一大決心をして外套を新調する。新しい外套を着ていくと、同僚の態度も以前より丁重になるが、その晩、追剥に外套を盗まれる。心痛のあまり死んでしまったアカーキー・アカエヴィッチは夜な夜な幽霊となって街頭に出没し、通行人から暴力的に外套を奪い、人々から怖がられる・・

『外套』を読むと、私たち人間が、いかに何かしがみつかないと生きていけないのか、遠い惑星から見ているような気分になる。つまり「外套」は権力をはじめ、お金、肩書きや虚栄心など、人の外側にあって執着するものであったらなんでもあてはまるだろう。

・・賢い人間には自分と外套の区別がわかるが、外套と自己を同一視してしまうと、いつの間にか人は「外套」に操られたロボットのようになってしまうのである。長い間権力を握っていた人間の多くが壊れたロボットのようになるのは、「外套」に操られているせいではないだろうか?

~「社会主義とは計算に他ならない!」~『風呂』マヤコフスキー

ロシア・アヴァンギャルドのスターであり、飛び切りの美青年詩人マヤコフスキーは、その戯曲で痛烈にスターリン体制の批判を(資本主義も批判しているが)して、36歳でピストル自殺した。(暗殺されたと言われている)

「個人」「個性」という概念、それこそ欧米的なものであり、国家を優先する全体主義にはそぐわない。かつて経済封鎖された日本が太平洋戦争で欧米に対抗したのも、そうした西洋文化との違いがあったからかもしれない。西田幾多郎は大東亜共栄圏構想の『世界新秩序の原理』の中で、欧米的な「個人の自覚」に対して「世界的自己の自覚」が必要であることを述べている、しかし結局、彼の言う「万世一系の皇室」である日本人の自覚以上のものにはならなかったのではないだろうか・・仏教の「万物は一つ」は、アジアの違う民族に、自国の同質性を押し付けるただの方便としかならず、また日本ファシズム以上のものにはならなかった・・結局、宗教が政治に利用されるとロクなことにならないような気がする。宗教倫理は極めて個人的・内面的なデリケートなもので、そのデリケートさが損なわれてしまうからだろう。

つまり、日本は対抗した西洋の帝国主義と同じことをしてしまったのであり、西田幾多郎の『世界新秩序の原理』があまりに観念的なのもあるが、異質な価値観に対抗している限り、結局同じ穴のムジナになってしまうだけだろう。対抗する前に、御互いに相手の価値観を理解し合おうとする努力さえあればいいのではないだろうか・・偏見は、自分のわからないに対して、わかったつもりになってレッテルを貼ることから生まれる。(人はわからないという状況が不安なのだ・・)

集団の中で、正気を保つのは難しい。そもそも善悪の基準があいまいなものなので、人は周囲の判断に流されやすく、しかも、パウロの言う「・・善を欲して悪をなす」のように善は容易に悪に転じやすい。そうすると、やはりそれぞれの「個人」の自覚が何よりも重要なんじゃないかという気がする。

社会主義にしろ民主主義にしろ、ファシズムはどの政治システムでも起こる。イデオロギーの問題ではなく、国家や経済を優先させればどうしても「個人・個性」は踏みにじられるか、あるいはメディアやプロパガンダによって内面まで操作されるか。まして戦時体制になればそれらはいっそう強化され、ますます人間は人間として扱われなくなるだろう。マヤコフスキーを殺した管理・監視社会は、私たち日本人にとっても決して他人事とは思えないのである・・そして、わかりにくい全体主義の方がよほど厄介かもしれない。

多様性を無理やり一つにまとめようとすればどうしても暴力的になる、かといって、個を重視すればバラバラになる・・国家を単位にして「全体と個」の問題を考えれば、どうしても西田幾多郎のような抽象的な言説になってしまう・・で、結局、「統治することの最も少ないほど最良の政府」というソローの言葉が、私にとっては一番納得できるのだ・・ソローの言う様に「政府とはたかだか一つの方便」に過ぎないのである。(最近の「子供食堂」のような自発的な市民運動はすごくいいと思う)

*第二次大戦・民主主義のファシズム・・ドイツファシズムが下から起こった民衆のファシズムであり、民衆のファシズムが「一貫したイデオロギーのなさ(イデオロギーではなく、まず仮想敵ありき)」「単純さ」「わかりやすさ」「匿名性」「優越意識」「理念の喪失」という反知性的な特徴を持つのに対し、日本ファシズムはそれに似た特徴も持ちながらも、権力が上から圧力をかけるタイプのファシズムだった。(日本ではドイツほど民主主義が成熟していなかったので)ファシズムの母体になるのはニヒリズムなのである。~参照『超国家主義の論理と心理』丸山真男

スターリン体制を生き抜いたショスタコーヴィチは面従腹背を貫くしかなかった。交響曲第五番を聴くと、ビゼーのハバネラが引用されていてそのあとはレクイエムのような沈痛な曲が続く。そう、ハバネラ!人の心はそんな簡単に思い通りになるものでも操ることができるものでもない、個人の人生と同じように。

スターリン体制下で生き延びるために、自身の心の弱さと直面せざるを得ない芸術家は多かっただろう。スターリンを風刺したために流刑にされた詩人マンデリシタームと懇意だったパステルナークは「・・それほど親しいわけじゃない」と言い訳をしたため、逆にその二枚舌ぶりを追及されたという・・参照『磔のロシア』亀山郁夫

~あの男が語った唯一の事は、人間のもろもろの罪悪の中で「臆病」を最も重要なもののひとつとしている、ということでした。~『巨匠とマルガリータ』ブルガーコフ

ブルガーゴフも面従腹背でスターリン体制を生き延びたひとりだった。『巨匠とマルガリータ』は、総督ピラトと、裏切者のユダ、処刑されるイエスの話をモチーフにした小説をなかなか書き上げることができない巨匠と、その愛人マルガリータの話で、その時代はさぞかし密告屋や裏切り者は大勢いただろうし、密告者もまた無残に殺されただろう・・

この小説に出てくる、悪魔ヴォランド。悪魔は黒魔術を使って札束をばらまき、女性の若さを蘇らせ、人々の欲望を掻き立て魅了し、支配し、攪乱させ・・悪魔にとって世界は計算可能(したがって予想も可能)なものなので、悪魔は冒頭でベルリオーズの死を予想する。そして、「~もし悪が存在しないのなら、お前の善はどうなる?」という悪魔ヴォランドの言葉通り、処刑されるキリストと悪魔はコインの裏表の両義的な存在なのであり、善が実在することを裏付ける影の存在でもあるのだ。

マルガリータが恋人を救うため、悪魔の舞踏会に招かれた春の夜。窓の外の月を眺めながらワルツを聴くシーンがある。それはヨハン・シュトラウスの優雅なワルツではなく、ショスタコーヴィチのワルツのような気がする。同じ三拍子系でも暗く物悲しく、「美しき天然」のジンタを彷彿とさせるショスタコーヴィチのワルツ。人の愚かさも惨めさもそして崇高さもすべてを観てしまった人にとって、喜劇は限りなく悲劇なのかもしれない。

わたしにとって、ロシア・ウクライナが偉大なのは、何よりも文学・音楽・美術でたくさんの優れた才能を生みだしたことなのである。

もうすぐサクランボの季節。孤立してしまったロシアの暴走と、瓦礫と化したウクライナの街を考えると何とも言えないやりきれない気持ちになる・・


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