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現代の生老病死 №15 [心の小径]

現代の生

     立川市・光西寺  寿台順誠

(3)現代の生苦

 そして、これまで述べたことから、私は「現代の生苦」は次のように表現したいと思っています。つまり、それは「優生思想に基づいて生が操作されることによって未来が奪われる苦しみ」であり、「生まれてこなかった方がよかったなどと思わされてしまうような苦しみ」だということです。或いは、それは又「苦しむことさえ奪われてしまう苦しみ」だと言えるかもしれません。人が生きていることは苦悩することだとも言えるからです(27)。
 この「苦しむことさえ奪われてしまう苦しみ」ということについては、現代では人は苦しむことを避けるようになってしまっており、「苦悩を避ける権利」を主張し始めているということを批判的に検討しているアメリカの法学者の議論を参考にしたものです(28)。そこでは、現にそのような権利が、生の始まりと終わりのところで主張されていると言われています。
 先ず生の始まりのところでは、二つの形で「生まれない権利」(right not to be born)を訴える訴訟が起こっていますが(29)、その一つは「不当出生」(wrongful birth)訴訟というもので、これは子どもが先天性の障害をもって出生した場合に、それを教えてくれなかったということで親が医師を訴える損害賠償訴訟です。これは、出生前診断をして障害があると分かっていたら産まなかったということですから、私はこれを「産ませやがって訴訟」と呼ぶことにしています。こうした訴えは結構通っているようですし、日本でも起こっているようですね。「誤った出生」などというのは、本当に悲しい訴えですけれどね。そして、もう一つは「不当生命」(wrongfu1 1ife)訴訟というもので、もっと厳しいものです。これは、先天性障害を持って出生した子ども本人が、医師の過失がなければ障害を抱えた自分の出生は避けられた筈だと主張して提起する損害賠償訴訟ですが、場合によっては医師だけでなく親も訴えの対象になります。だから、私はこれを「産みやがって訴訟」と呼ぶことにしています。このような不幸な人生を産み出しやがってという訴えですが、これは賠償すると言ってもどう償ったらよいのか分かりませんので、訴え自体少ないですし、やはり退けられているようです。本当に悲しい訴訟だと思いますが、こんな訴えが起こってくること自体、優生思想が蔓延っているからだと思わざるを得ませんね。
 次に生の終わりのところでも、似たような訴えが起こっています(30)。それは「不当延命」(wrongfu1 1iving)訴訟という「死ぬ権利」(right to die)を主張するものですが、終末期には延命治療をしないではしいというリビングウイル(living will)や事前指示書(advance directiives)があったのに、それが無視されて延命させられてしまったことに対する損害賠償訴訟です。ですから私はこれを「生かしやがって訴訟」と呼んでいますが、このような訴えは実際には賠償しようのないものなので、訴えは通っていないようです。ただ私はこれを訴訟技術の問題として考えているのではありません。こういう訴えが起こっていることが、現代の問題を表しているのではないかという意味で、これを取り上げているのです。つまり、このような訴えを起こさねばならないほど、生きることが不幸になってしまっているということではないでしょうか。
 このように、人生の出発点と終着点において、似たようなことが起こっている訳ですが、ここには優生思想という共通項があると思うのです。「不当出生」訴訟や「不当生命」訴訟が優生思想に基づくものであることは明らかですが、そのように生の始まりにおいて「優生」を求めて「劣生」を排除しようとすることが、生の終わりの方では、一生懸命アンチエイジングに取り組んで老いを隠し、又ひたすら健康であることを演出して病を隠して、そして長く引き延ばされた老・病から死へのプロセスの最期は「ピンピンコロリ」と逝きたいという希望や、或いは「安楽死・尊厳死」願望として表れてくるということではないかと思うのです。このような形で優生思想が人生全体に関係しているのではないでしょうか。「無益な延命治療」などという言い方をよくするのですが、本当に無益かどうかは分からないですよね。そういうことを言うのは、たいてい本人ではないですね。どうして人が他人のことを「無益」だと言えるのでしようか。そんなこと言えない筈なのですが、もう生きている価値がないなどと感じてしまうところには、やはりある種の「優生」を求める価値観があるのではないかと思うのです。とは言え、私はどんな場合にも尊厳死や安楽死には反対すべきだなどと言う気はありません。ただ、現代においてそうした願望が出てくる根本には、優生思想の問題があるのではないかということを、私は仮説的に考えているという訳です。

(27) このような人間観に関しては、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧 新版』(池田香代子訳、みすず書房、2002)及び『苦悩する人間』(山田邦男・松田美佳訳、春秋社,2004)参照。フランクルは前者において苦悩することの重要性について述べ、後者において人間とは苦悩する存在(Homopatiens)であるという人間観を打ち出している。尚、英語の“patient”(病人・患者/忍耐強い)はラテン語の“patience”に由来するという。“Homopatience”(苦悩人)とは“Homosapience”(知性人)に対抗する人間観だと言えるであろう.

(28)Lois Shepherd,Sophie's Choices:Medical and Legal Responses to Suffring,Notre Dame Law Reuiew,72(1),1996.

(29)  これについては前注28の他に、加藤秀一「「生まれない方が良かった」という思想をめぐって-Wrongful life 訴訟と「生命倫理」の臨界 —」『社会学評論』55(3);2004;八幡英幸「出生の評価と存在の価値-Wrongful life訴訟との関連を中心に-」『先端倫理研究』2,2007参照.

(30) これについては、Holly Fernandez Iynch,Michele Mathes and Nadia N・Sawicki,Compliance with Advance Directives:Wrongful Living and Tort Law Incentives,The journal of Legal Medicine,29,2008参照   

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より
                         


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