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妖精の系譜 №23 [文芸美術の森]

 スペンサーの『妖精の女王』

       妖精美術館館長  井村君江

 チョーサーが部分訳を試みている中世フランスの韻文(メトリカル)ロマンス『薔薇物語』は、この時代の典型的な寓意的(アレゴリー)恋愛詩である。恋する女性を「薔薇」に喩え、「危険」と「悪口」と「羞恥」と「恐怖」に厳重に見張られている囲いから、愛人は「愛の神」(ヴィナス)の助けを借り「歓待」に導かれて「慈愛」と「哀憐」の同情を得て「薔薇」に口づけ出来るという「恋愛技巧論」ともいえる物語である。抽象的な観念を具象的な人物に託して描く手法は、中世からルネッサンスにかけて流行したものであった。
 エドモンド・スペンサー(一五五二?~九九)の『妖精の女王』(一五七九~九六)は、この寓意叙事詩の傑作といえるものである。スペンサーはこの作品に二十年の歳月を捧げ、第四巻まで生前に出版したが、未完に終わっている。しかし全篇の構想は、すでにウォルター・ローリーにあてた書簡に書かれており、それによれば、妖精の女王グロリアーナが年に一度、十二日の問大宴会を催し、十二の徳を代表する十二人の騎士を一日一人ずつ武者修行に出し、騎士は悪を滅ぼし手柄を立てる。プリンス・アーサーは「徳」を代嚢し、グロリアーナの幻影を見て遍歴を続け、その間に十二騎士を助ける。この二つの主題を組み合わせ、一巻を一人の騎士の活躍にあて、十二巻の一大叙事詩とする計画であったことがわかる。
 さらに『妖精の女王』執筆の目的は、アリストテレスの十二の徳を描き「高貴な人物に立派な道徳的訓育を施すこと」にあるとスペンサーは言っているが、中心はギリシャ思想ではなくキリスト教的道徳観で、構成の骨組みはアーサー王伝説、そして全巻はエリザベス女王に捧げる讃歌にするといった重層的なものであった。
 登場人物の一人プリンス・アーサーは時としてフィリップ・シドニーであり、また別のところではレスター伯ともいわれるが、あらゆる徳を一身に備えた完成した人物として描かれている。プリンス・アーサーが絶えず心に思い描き、敬愛し讃美している女王グロリアーナとの関係は、全巻に登場する騎士と恋人たちの関係を代表的に示しており、アーサーが徳を示す理想的存在であることがわかる。ただしその位置関係は、王妃グウィネヴィアに対する騎士ランスロットの献身的な宮廷恋愛(アムール・クルトワ)の関係に近い。
 妖精の女王はエリザベス一世を象徴しているが、その呼び名としてグロリアーナ(栄光)、ベルフィービ(優美)、シンシア(月の女神)、ブリトマート(清純)、マーシラ(慈悲)といったさまざまな名前と属性をもった人物として描いており、最高の徳と地位と美を体現する女性として最大級の讃辞の筆で描かれている。妖精の女王には月の女神の属性が重ねられているが、アーサー・ゴールディング訳でオウィディウスの『転身物語』の影響の下に描かれていることがうかがえる。この書は後にシェイクスピアが妖精の女王ティタニアの映像を形成するのに多くの示唆を与えたといわれるもので、月の女神ダイアナの属性がよく描かれている。
 第二巻で騎士ガイアンがメディーナ姫に語るところによれば、「そのお方(グロリアーナ女王日エリザベス一世)は、最も偉大で最も輝かしい処女王で、至高の権力と輝かしい王第で妖精の国の全土を平和に治めておられ、その威容が全世界の目に映るように、広々とした大海に玉座を設けられ、朝日のごとく燦然と光を四方に放ち、お顔には麗しい平和と慈悲とを現わしておられます」というように、グロリアーナは月の女神ばかりでなく、太陽神をも重ねあわせたかのような輝かしい存在にもなっている。
 一方対折的な映像としてデュエッサが描かれているが、「虚偽」と「悪」の象徴として醜い肉体を持つ魔女のような恐ろしい姿として登場する。これはスコットランド女王メアリー・スチユワートを示していると言われる。
「半身は長々とのびた蛇の如く、残りの半身は女の姿をして、その奇怪さ、醜悪さ、いまわしさは、身の毛もよだつほどであった」とネメシスのような蛇身になっているか、ある時は美しい姿となってみだらな愛欲に誘おうとしたり、ある時はゴブリンたちを意のままに従わせて人を計略にかける恐ろしい魔法使いともなったり、またある時はフィデッサ (不誠実)と名乗り、哀れな姿で人の慈悲にすがったり、さまざまな変身を見せている。
 また高慢なルシフエーラが登場するが、彼女は勝手に女王になり王冠をいただいた倣慢な女王として、足もとには龍を従え、自分の顔を鏡に映してみとれているが、これは「虚栄」を表している。
「その生まれを誇る慢心はひどいもの」とあるが、ルシフェーラの両親は「薄気味悪い地獄の王ブルートーとその妃プロセルピナ」とされている。悪魔ルシファーを思わせるこのルシフェーラはメアリー・チューターであり、プロセルピナはアラゴンのキャサリンを示し、したがってプルートーはヘンリー八世となるが、王は他ではオベロンという名で呼ばれている。ここで興味深いことは、前に触れたチョーサーは、プルートーとプロセルピナを妖精の王と女王としていたが、スペンサーは文字通り地下に住む地獄の王とし、悪魔ルシファーの父としていることである。したがって、スペンサーにとって妖精の国は地下ではなく地上に存在するものと考えられていたことがわかる。妖精の国は傷心のスペンサーにとって大英帝国そのものであったわけで、この作品が遠く海を隔てた異郷の地アイルランドで描かれたものであり、祖国を憧れる気持が妖精の国という粉飾をさらに強調させたともとれるのである。この妖精の国は女王エリザベスによって支配され、ヘンリー八世がオベロンとして、エリザベス女王の父祖としておかれて、一大エルフィン王の系譜が示されているところは興味深い。男性をエルフ、女性をフェとして区別し、創造主がプロメテウスから人間を創り、これをエルフすなわちクイックと呼び、これが全女性の祖先フェと出会って生まれたのがフェアリーで、そこから国民と君主が生まれ、この王権をほしいままにした最初で最後の者がエルフィン、そこからさらに~エルフィン ~エルフィナン ~エルフィリン ~エルフィクレオス ~エルフェロンという系図ができあがったとしている。天逝したエルフェロンの空位を継いだのがオベロンで、自分の娘タナキルがグロリアン(グロリアーナ)として妖精の国を支配する女王(エリザベス一世)となったと説明されている。妖精王にオベロンという名を付したのはバーナーズ卿訳による中世ロマンス『ユオン・ド・ボルドー』をもとにしたといわれているが、これはシェイクスピアのオベロンより先がけていると推定される。
 サミュエル・ジョンソンは「シェイクスピアの時代には妖精というものが盛んに流行しており、広くゆきわたった伝承を通して、人々は妖精をなじみ深い存在として受けとめていた。そしてスペンサーの詩は、そうした妖精たちを偉大なものにしたのである」としているが、思うにジョンソンはスペンサーの文学作品と民間伝承としての妖精物語とを混同し、スペンサーを過大評価しているようである。というのはスペンサーは妖精の女王を作品にしたが、妖精を寓意や象徴として、ある代価物を描写するための導入概念として文学の中で用いたわけで、妖精自身の生きた生命はまったく無視しているからである。しかし、後世の詩人や文学者たちが、妖精王国を描く際に与えた影響は大きいと言わねばならない。とはいえ、妖精女王や娠噺疇幻がいかに詳細に描写され、修飾されていても、妖精たちは彼ら独自の生命はもたず、厚いきらびやかな衣裳に包まれ、豪華な額縁の中に納まってしまっているのである。
 スペンサーが「フェアリー」という語を「魅力ある国」および「そこに住む者たち」という意で定着させた功績は大きいが、「エルフ」と「フェアリー」を区別なく用い、さらに「エルフ」をおおむね男の妖精に、「フェ」を女の妖精に用いていることは、厳密な区別とはいえないようである。例えばサー・ギオンを「妖精騎士」とか「好戦的妖精」と呼ぶ一方、プリンス・アーサーを「フェアリー・ナイト」とも呼んだりしているのである。
 『妖精の女王』は、妖精にギリシャ神話の神々や精霊、鬼婆や怪物などを自在に重ねあわせ中世騎士物語の要素も加味して、独自のフェアリー王国を形成したといえる作品で、さらにそこには十字軍遠征の影響でオリエントの豪著さもフェアリーの描写に付け加わっていったことが、次の引用からもうかがえよう。
  彼らの僻師榊鋸や官延の宴会は、想像のおよぶ限。豪華で壮麗なも㌢あっく畑行列では、人間界の普通の馬よりもずっと美しい馬が練り歩いた。彼らの狩りに使われる猟犬も鷹もみな一級の血統のものであった。日々の宴では、人間界の最も誇り高き王とて気をそそられざるを得ないような見事な料理が供され、踊り子の広間には、世にも妙なる音楽が谺(こだま)していた。
 要するにスペンサーの描いたフェアリー・ランドは、全体として極めて人工的なアレゴリカルなものであり、読者は常にロマンチックなシーンの背後に横たわる倫理的あるいは政治的な意味を想起させられる。そして作品全体が、騎士の冒険物語の登場人物と、その場その場に合った装飾を組み合わせた、いわば詩人にとって実に都合のよい仮装舞踏会という印象を与えるのである。
 農民たちの空想力が生んだ妖精は山野を自在に走りまわり、人々の生活と密接につながった親しい存在であり、恐れられたと同時にやはり愛されてもいたのである。例えば「ロビン・グッドフェロー」というような呼び方には明らかに親しみがある。しかしながらそれがひとたび民衆の手を離れ、貴族の城に入った時、妖精は変貌し始め、最後には身勝手な貴族の夢の代用品にまでなりさがった。フェアリーランドの情景は退屈した貴族の物質的な欲望の具体化以外の何物でもない。あくまで空想力の所産であるはずのフェアリーが、その支えを失い創造性の飢餓に出会ったとき、その生命も魅力もまた失われてゆくのは当然のことであろう。
 寓話(アレゴリー)の枠の中で生命のない妖精たちが息を吹き返してくるのは、観客を前にした舞台の役者たちの演技を通してのことで、演劇の隆盛時とシェイクスピアを始めとするエリザベス朝の劇作家たちの出現を得たねばならないのである。

『妖精の系譜』 新書館


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