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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №78 [文芸美術の森]

       喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ

         美術ジャーナリスト  斎藤陽一

    第6回 人気ナンバー1・難波屋おきた

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≪人気ナンバーワン 難波屋おきた≫

 前々回、前回と、歌麿描く「寛政三美人」を紹介しましたが、その中の一人「難波屋おきた」は、三人の中でも人気ナンバーワンだったと言われます。水茶屋で甲斐甲斐しく立ち働くその姿は、浮世絵師たちに最も多く描かれました。

 歌麿は、「難波屋おきた」だけをモデルに、いくつかの絵を描いています。そのひとつが上の絵です。この絵が描かれた寛政5年頃のおきたの年齢は数え年16歳と言われます。彼女が着ている着物に散らされた文様は、難波屋の家紋「桐」なので、茶を運ぶ姿とあいまって、モデルが特定できる仕組みです。

 水茶屋「難波屋」は、浅草の随身門わきにあり、連日、おきたを見ようという人たちが押しかけ、時には、水を撒いて追い払わなければならなかったほどだった、と伝えられています。
 当時の狂歌に、おきたのことを「金箱娘」(かねばこむすめ)と詠んだものもあり、難波屋にとっても「ドル箱」だったことが推察できます。

 この絵の左上の短冊に書かれている歌を紹介しておきます。

 「難波津の名におふ者はゆきかひに
        あしのとまらぬ人もあらじな」(桂 眉住)

 「通りすがりの人で、難波屋に足がとまらない者はいない」と、「おきた人気」を詠っているのです。 

≪雲母摺りの美女≫78-2.jpg

 前回、おきたのことを「ちょっと上がり気味の眼は細めで、優しく相手を見つめるような眼差し。鼻はすんなりとしてややかぎ型、口もとがかすかに開いて、話しかけているかのよう。顔の輪郭はややふっくらとした感じ」と申し上げましたが、この絵にも、ごく微妙ですが、同じような特徴が表現されています。

 この絵の背景に使われている技法は「雲母摺り」。
 これは、白雲母の細かい粉を、糊のついた和紙に版木で押したり、直接、糊に混ぜて紙に塗ったりする、という技法です。これは、とても贅沢な技法であり、浮世絵でも高価に売れるものにしか使われませんでした。
 この絵に先立つ寛政元年(1789年)に、この「雲母摺り」を初めて「美人大首絵」に使ったのが歌麿でした。
 ここでは、ほのかに光る雲母の光沢の中に、おきたの姿が浮かび上がり、ひときわ艶麗な効果が生まれています。

≪鏡を小道具にした美人画≫

 もう1点、歌麿が、難波屋おきたを描いた絵を見ておきます。

78-3.jpg この絵には「姿見七人化粧」という題名がつけられているので、姿見(鏡)を使っている女たちを描き分けた7枚シリーズとして企画された可能性がありますが、現存するのはこの1枚だけです。

 歌麿ほど、鏡を小道具にした「女絵」を多く描いた浮世絵師はいません。それも、単に小道具として画面に描くだけではなく、鏡を用いて、女性の前後の美しさや、鏡に見とれる女の風情や心理を表現するために、効果的に画面に配しています。

 この絵のモデルは「難波屋おきた」とされます。おきたは、大きな鏡に顔を近づけて、鬢(びん)の張り具合を手で確かめている。かすかに微笑んでいるように見えるのは、満足が行ったのでしょう。

 ここで歌麿は、鏡を媒体として、美しいおきたの顔だけでなく、流行の髪形を前後から丁寧に見せています。
 さらに、鏡の面には「雲母摺り」(きらずり)を施して、銀色の輝きを演出し、背景は「黄潰し」(背景の地を黄色一色で摺ること)にして、鏡の中の「虚の空間」と壁の「実の空間」とを分けています。

78-4.jpg 歌麿の大首絵は、印象派の画家たちに鮮烈な印象を与えました。ことにドガなどは、それをうまく吸収して、それまでの西洋絵画にはなかったような、大胆な構図の人物画を生み出しました。

 右の絵は、ドガが描いた「婦人と犬」(1875~80年)という作品です。
 ドガの集めた浮世絵コレクションの中には、歌麿の作品も入っていたので、この絵は、歌麿の大首絵から発想を得たものかも知れません。鏡のかわりに犬を描き、さらに、あえて後ろ姿でとらえて、女性の表情を消してしまい、瞬間をスナップショットでとらえたようなインパクトが生まれています。

 次回も、喜多川歌麿の美人大首絵を紹介します。


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