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雑記帳2022-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-3-15
◆千葉市美術館ではこの冬、「Japonizme 世界を魅了した浮世絵」展が開かれていました。館の所蔵する膨大な浮世絵コレクションとともに、19世紀以降、浮世絵に影響を受けた西洋文化をながめた、興味深い企画でした。

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「Japonisme 世界を魅了した浮世絵」のポスター

幕末、世界に国を開いた日本からは多くの美術工芸品が西洋にわたり、西洋は初めて目にする日本の美に熱狂しました。それは、生活の様々な分野に変化をもたらして、その動きはジャポニズムとよばれました。
中でも、浮世絵版画に影響を受けた画家は想像していた以上に多かったのです。

千葉市美術館は8階建ての旧川崎銀行千葉支店ビルを保存、修復して利用しています。
浮世絵を8つのテーマにわけた会場を巡れば、浮世絵が世界を席巻した時代の状況と同時に、浮世絵自身の全貌も眺められるようになっていました。

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千葉市美術館 旧銀行のビルを修理して使っている

例えば第1章「大浪のインパクト」で、まず目に入るのは、誰もが知る北斎の代表作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」です。
ダイナミックに立ち上がる波と飛沫のはるか向こうに小さく富士山が描かれた大胆な構図は、西洋の画家たちの度肝をぬくものでした。 
北斎のこの絵に触発されたのはゴッホやゴーギャンだけではありません。何人もの画家がその手法をまねた絵を残しています。北斎のあとにつづく浮世絵画家たちにも影響を与え、波は浮世絵の重要なテーマになったのです。

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北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」
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ヴァデイム・ドミトリヴィッチ「カプリ島」

新興都市江戸は様々なインフラ整備をすすめ、次第に上方を凌ぐ文化を形成していきます。その文化の担い手は、これまでの貴族や武士ではなく、町人でした。浮世絵はまさに町人文化の象徴でした。描かれる舞台も物語のそれではなく、現実のくらしです。
水の都、江戸では、隅田川は恰好の材料でした。川にかかる橋、橋に群がる人々、つながれた小舟、或いは橋脚そのものまでが数多く描かれ、同じような構図の西洋画も数多く紹介されていました。

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広重「名所江戸百景 京橋竹がし」
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ドミトリヴィッチ「高い橋」

西洋の絵画が視点を固定して写実的に描かれているのにたいして、日本絵画の美意識では、写実的に描くことに執着せず、自在に視点の高さを変えています。
北斎におくれること20年余、おなじみの広重の「名所江戸百景 深川須崎十万坪」は、上部に大きく飛ぶ鳥を配し、隅田川から深川方面に広がる雪景色を描いています。
平安時代の絵巻からつながる「俯瞰の構図」はジャポニズムの特徴と捉えられ、模倣もされましたが、これほど大胆な構図は見当たりません。西洋の画家たちの眼には広重はまさに「空飛ぶ浮世絵師」だったのではないでしょうか。

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広重「名所江戸百景 深川州崎十万坪」

ジャポニズムの特徴は空間だけでなく、形や色彩にもあらわれています。

面白いと思ったのは、立体感を重んじる油絵の西洋絵画では、黒は色としてではなく、影に利用されていただけなのに対し、墨が基調の日本絵画にとって黒は重要な色だったことです。
平面性を重要視する日本絵画では、黒は形を明確にする輪郭線であり、彩色される色です。色数が限られ、平面的な構成によって成立する浮世絵版画に於いては一番重要な効き色だったようです。鈴木晴信の「夜の梅」は、画面の2/3を黒が占めています。役者絵の背景の広い面に黒が使われていたり、人物の着物の色に黒を効果的に使っている作品が沢山ありました。この黒の使い方にもゴッホは強い衝撃をうけたようです。有名なロートレックのポスター「デイヴァン・ジャポネ」は黒いドレスの女性が印象的です。

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鈴木晴信「夜の梅」

広重の「名所江戸百景シリーズ」は、縦長の狭い画面に風景を切り取った印象的な構図です。手前に大きく木や花を描き、遠景に小さな風景を入れて遠近感を出す手法も西洋にはなかったものでした。モネの「睡蓮の池」は広重の「亀戸天神境内」の構図にそっくりです。構図だけではなく、花鳥風月を愛でる日本人には馴染みの、蜻蛉や蝶のような身近な小動物や植物のモチーフは新鮮な驚きを西洋にもたらしました。

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広重「亀戸天神境内」
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モネ「睡蓮の池」

日本人にとって四季は常に身近で、それは絵画にも反映されています。花や月だけでなく、雨や雪も重要なモチーフになりました。広重の「東海道五十三次」にも雨や雪の中を行く旅人が頻繁に描かれた他、歌麿や晴信の美人画にも傘をさす主人公が登場します。西洋には、背景の景色としては描かれても、雨や雪の降る様を描くことはありませんでした。触発されて雨の風景画を描いた画家の中にはロシアやスエーデン生まれの画家たちもいて、まさにジャポニズムが世界中を魅了したことがうかがえました。

浮世絵は風景画や美人画だけではありません。
日常の庶民の暮らしがいきいきと写された絵を、人々は競って購入しました。中でも人気があったのは「母と子」でした。第8章のテーマは「母と子の日常」でした。
ジャポニズム以前の西洋絵画に登場する母子といえばマリアと幼子イエスにかぎられていたことを思うと、当時の日本社会の、想像していた以上に自由な空気を感じるではありませんか。

母と子の日常が浮世絵に登場するのは、江戸も開幕から150年経ち、インフラもすすんで都市の機能も充実してきたころです。人々は平和に馴れ、恵まれた都市の環境の中で、子育てにも余裕がうまれたのでしょう。子供が大切にされていたことがうかがえます。
子供に行水をさせる図は、歌麿や国貞も描いています。それをまねて、明治時代に来日したアメリカ生まれのメアリー・カサットが「湯あみ」を出したほか、幸福な母子像に影響を受けた西洋の画家は少なくありませんでした。

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歌麿「風俗美人時計子の刻」
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ヘレン・ハイド「かたこと」

こうしてみると、改めて、浮世絵は平和な時代の産物だったことがわかります。(上記写真はいずれも会場内で撮影許可された作品)
この浮世絵の祖と呼ばれているのが「見返り美人図」の作者、菱川師宣です。

4代将軍家綱の時代、まだ木版画が発生する前は肉筆の浮世絵の時代でした。このころに活躍した岩佐又兵衛をもう一人の浮世絵の祖と呼ぶ人もいます。
明暦の末に初めて木版の墨摺絵が生まれ、出版文化の到来とともに、挿絵から独立した風俗画・役者絵がはじまりました。墨摺絵はその後多色刷りの錦絵に発展します。
師宣はこの時代に生まれました。

平安の末法思想は江戸に入ると、つかの間の仮の世であればこそ「うきうきくらそう」という享楽的な考えに変化しました。その「享楽的な現代の様」、つまり、今様・当世風をえがいた絵画が浮世絵とよばれたのです。

長い間経済や文化の中心だった大坂・京都から中心が江戸に移った時期、美人画では江戸風の美女がもてはやされ、役者絵も荒事が好まれました。

師宣は安房の国保田(ほた)にうまれました。家業の刺繡の下絵を描く手伝いをしながら絵を学び、1657年、明暦の大火後江戸に出ます。
1671年(寛文11年)に初作「私可多咄」刊行、翌年「武家百人一首」で挿絵画家としてデビューしました。多くの草紙本の挿絵を描くうち、添え物だった挿絵が一枚絵として独立する時代になります。師宣は絵入り本の挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に耐えうる一枚の絵画作品に高めるという、絵画史に重要な役割を果たしました。

若々しくのびのびとして翳りのない画風は、明暦の大火後の復興に沸く市民の気風にマッチし、健康的であけっぴろげな図柄も時代を反映するものでした。
描いたのは二大悪所と言われた歌舞伎と遊里、隅田川や花火の名所に集う遊女です。粋な江戸風の美人画は大いにもてはやされました。
「見返り美人図」に表現されている、おおらかで優美な作風は同時代に活躍した俳諧人宝井其角から「菱川やうの吾妻俤」と評されました。女性の髪形や着物、帯等、結び方に至るまですべて当時(享保年間)流行していたもの、いわばファッションリーダーでもあったのです。

その師宣記念館が師宣の生地、鋸南町にあります。ちょうど、「おいしい浮世絵展」を同時開催中。当時の売れっ子浮世絵師たちの描いた江戸の庶民の食事風景には、屋台あり料亭あり、ファストフードあり宴席料理あり、豆腐百珍あり倹約料理取り組み表あり、江戸の食文化はまさに百花繚乱。浮世絵はそんな暮らしも伝えているのですね。記念館では師宣を「大江戸のあけぼのを描いた男」と紹介していました。

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菱川師宣記念館
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師宣の代表作「見返り美人」
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おいしい浮世絵展ポスター


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