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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №77 [文芸美術の森]

                  喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ
                  美術ジャーナリスト  斎藤陽一
                       第5回 寛政三美人 その2

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≪三人三様、微妙に描き分け~続き~≫

 喜多川歌麿が寛政4年頃に描いた「当世三美人」(通称「寛政三美人」。大判錦絵)について、前回に引き続いて紹介していきます。

 前回では:
「この三人の顔を見ると、一見、みな同じように見える。歌麿は、美人画では、女性の顔の個性や表情を決して露わには描かないのです。・・・とは言え、よく見ると、その中にも、目の形や鼻筋の線、顔の輪郭、眼鼻の配置、さらには、着物のデザインや着こなし、それぞれの持ち物といったところで、実に微妙な描き分けかたをしていることが分かる」と申し上げました。そして、絵の中にさりげなく描き込まれた「紋所」によって、江戸っ子たちには、三人の身元が分かる仕組みになっている、と指摘しました。

 では、そのほか、どのように描き分けがなされているのでしょうか?
 まずは、この絵の三人をじっと眺めて、心に浮かんでくるものを感じ取って下さい。 

 では、着物の描き方の違いを見てみましょう。

 「富本豊雛」は、いかにも芸事に秀でた売れっ子芸者らしい洗練された着物と、ちょいとあか抜けた着こなしをしています。(当時は、「寛政の改革」によって、華美な着物などは禁じられていました。)
 次は、浅草の水茶屋の看板娘「難波屋おきた」。彼女は気立ての良い働き者で、客を優しくあしらいながら、店内をてきぱきと動き回ったと言われる。こんな彼女を見ようと、見物人が押し寄せたそうです。仕事着らしい絣(かすり)の着物と団扇を手に持つ仕草には、そんなおきたの雰囲気が漂います。
 左下の「高島おひさ」の実家は、老舗の煎餅屋のほかに水茶屋などを多角経営する資産家でした。彼女は、父の経営する水茶屋に手伝いとして出て、看板娘となりました。家紋がついた瀟洒な着物を着て、白手ぬぐいを肩にかけた姿には、ちょっと育ちのいいお嬢さんが家業を手伝っているような雰囲気が感じられます。

77-2 のコピー.jpg 次に、それぞれの顔つきに注目してみましょう。

 まず中央の富本節名取り芸者の「富本豊雛」。

 目もと涼しく顔立ちの整った、きりりとした印象で、芸事に秀でていたという彼女の心意気も感じられる。
 相手を見つめる眼差しも魅惑的で、売れっ子だったという話もうなずけます。

 豊雛は、その後、大名に見初められ、その側室になったという噂が伝77-3 のコピー.jpgわっています。出世したというべきでしょう。

 次は右下に描かれた「難波屋おきた」。

 ちょっと上がり気味の眼は細めで、優しく相手を見つめるような眼差しです。鼻はすんなりとしてややかぎ型、口もとがかすかに開いて、話しかけているかのよう。顔の輪郭はややふっくらとした感じです。

 おきたは働き者で、てきぱきと動き回りながら、店に来た客たちを優しく応対するという気立ての良さで人気があったと言う。
 そんな感じが伝わってきませんか?

77-4 のコピー.jpg 左下に描かれているのは「高島おひさ」。
 他の二人と比べると、どこかおっとりとした感じがします。
 ちょっと小さめの眼もとに愛嬌があり、口は受け口で、下ぶくれ気味の顔立ちに、あどけなさと甘えん坊らしい風情が感じられる。

 こんな風に、三人の女性は、実に微妙に描き分けられているので、私たちはじっと眺めながら、それぞれに思いをめぐらせて楽しめば良いのです。江戸っ子たちも、そのようにして楽しんだのだと思います。

 こうしてみると、これは、当世を代表する美女たちのブロマイドのようなものでしょう。こんな歌麿の美人画は、たちまち評判となり、大いに売れました。
 当時、「錦絵一枚、かけそば一杯」という言葉があり、長屋の熊さん、八さんも、手頃な価格で、あこがれの「当世美人」のブロマイドが買えたのです。
 ちなみに、江戸時代後期には、大体、普通の錦絵1枚が20文、かけそば1杯が16文くらいだったようです。

 次回は、歌麿が「難波屋おきた」を単独で描いた錦絵を2点紹介します。

                                                                 

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