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新訳論語 №138 [心の小径]

四三四 子のたまわく、ただ上知(じょうち)と下愚(かぐ)とは移らず。

       法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「人は習いによって賢とも愚とも移り変るが、ただ最上級の賢人と最下級の愚者とだけは、かれは『生れながらにして知る者』であり、これは『困(くるし)みで学ばざる者』であるから、移りようがない。」

 本章は前章と続いていたのに誤って「子日」がはさまり別章になったのだ、という説がある。なるほどそうかも知れない(参照-四二六)。

四三五 子、武城(ぶじょう)に之(ゆ)きて弦歌(げんか)の声を聞く。夫子莞爾(かんじ)として笑いてのたまわく、鶏を割(さ)くになんぞ牛刀を用いん。子遊(しゆう)対(こた)えていわく、昔おの(むかし)偃(えん)やこれを夫子に聞けり。のたまわく、君子道を学べばすなわち人を愛し、小人道を学べばすなわち遣い易(やす)しと。子のたまわく、二三子(にさんし)、偃の言(ことば)是なり。前言はこれに戯(たわむ)れしのみ。

 孔子様が二三人の門人を連れて、子游(しゆう)(名は偃)が町長をしている武城に行き、子游の案内で町を見物しておられると、家々から琴に和して歌う声が聞えた。それがいわゆる「鄭声(ていせい)」などではない政党の雅楽なので、子游がその町を礼楽で治めていることを知り、ニッコリと笑って、「鶏を料理するに何も牛刀包丁には及ぶまい。」と言われた。すると子游はこれを、これくらいの小さな町を治めるのに礼楽とは大げさ過ぎる、という意味にとり、「偃は以前に先生から君子道を学べばすなわち人を愛し、小人道を学べばすなわち使い易し。』という言葉をうかがったことがあります。それ故 私は小さい町ながら礼楽で治めたいと考えて人民たちに雅楽を教えておりますのに、鶏に牛刀と叩せられるのはその意を得ません。」と開き直って真っ正面から理屈を言った。孔子様は、実は子瀞のような国家をも治め得る大才にかような小さな町の町長ぐらいはもったいない、という意味でシャレを言われたのだが、お前の思い違いだとは言われないで子游の顔をたて、門人たちを顧みておっしゃるよう、「イヤ全く偃の言う通りだ。さっきのは冗談じゃよ。」

 孔子様が冗談など言われるはずがないというのでいろいろ理屈をならべる学者もあるようだが、そう孔子様を「人を教える道具」にしてもらっては困る。孔子様どうしてなかなか冗談も言われる。明治の新川柳(岡田三面子すなわち朝太郎博士の作)の「惜しいかなシャレのわからぬ男にて」を前にも引いたが、子游こそ「文学の子游」とも言われるのに(二五五)、さても「シャレのわからぬ男」かな。なお子游が武城を治めるのに人を得たという話が、前に出ている。

四三六 公山弗擾(ぶつじょう)、費を以て畔(そむ)く。召(また)往かんと欲す。子路(しろ)説(よろこ)ばずしていわく、之(ゆ)くことなきのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かん。子のたまわく、それわれを召まね)くはあに徒(いたずら)ならんや。もしわれを用ゆるあらば、われはそれ東周(とうしゅう)をなさんか。

 公山弗擾は李氏の家老であり、例の陽虎(ようこ)の棒組で、主人の李桓子(りかんし)押し込めたりしたが、陽虎が出奔した後に残り、費に立籠って李氏にそむいたのである。                                        

 公山弗擾が費を根拠として謀反し、孔子様を招いたので、行く気になられた。子路がおもしろからず思って、「行くのほおやめなさい。何も公山氏などの所に行くことはないではありませんか。」とおとめした。すると孔子様がおっしゃるよう、「ああやってわしを招く以上は、まんざら無意味でもあるまい。誰でもあれわしを用いてくれるならば、わしは周の文王・武王の道をこの東方魯の国に復興させてみたいのじゃ。」

 次の次の章(四三八)と併せてみても、このところ孔子様もだいぶあせり気味だ。天下万民を救わんとのお志はさることながら、大義名分を唱える孔子様ともあろう者が、乱臣賊子(らんしんぞくし)と事を共にされようとは甚だもってその意味を得ない。これは子路が説ばなかったのが至極もっとも話で、結局どちらも実現しなかったらしいが、さもあるべきことだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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