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妖精の系譜 №22 [文芸美術の森]

チョーサーの『カンタベリー物語』と妖精

     妖精美術館館長  井村君江

 中世時代はキリスト教の時代であるが、一二〇四年に第四回十字軍がコンスタンティノープルを陥れたり、ヨーロッパの学者たちが東洋に旅する機会が多くなると、ギリシャの言語や文化を学ぶ機会が増え、ギリシャの文学や学問を、ラテン語や英語に訳そうとする機運が高まってくる。
 ギリシャ最古の叙事詩ホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』の訳も現われるが、この中で、ニンフ(ニュムペー)たち、水の精(ナイアーダス)、樹木の精(ドリアーダス)、山の精(オレイアデス)、海の精(ネレイデス)たちがすべて妖精におきかえられているのに気づく。例えば、アキレウスが誕生した時、その「ベッドのまわりは水の妖精が迷路のような輪を作って踊った」という訳が「フェアリーたちが踊った」と記されており、ギリシャの精霊と妖精との混同がこうした翻訳の経路で行われていたことがわかるのである。ホメーロスは、ニンフについて「彼女たちは山川草木、場所、地方、国、町などの擬人化された女神で、若く美しい女性であり、ゼウスの娘である。不死ではなく長寿であるが、樹木の精はその木とともに生命を終える。彼女たちは歌と踊りを好む」としており、自然の精霊であり歌や踊りを好むことは妖精に似ているが、その性を女性だけに限っている点は異なっている。
 こうしたギリシャ神話の神々やニンフと、フェアリーの混同は、ジョフリー・チョーサー(一三四〇?~一四〇〇)の物語に顕著に現われてくる。『カンタベリー物語』(一三八七-一四○○)の挿話の一つ「貿易商人の話」では、フェアリーの国の王をプルートー、その妃をプロセルピナと呼んでいるが、いずれもギリシャの地下の神である。プルートーは、ゼウス三兄弟の末弟で、冥府の王であり、その名は富を意味する「ブルートス」に由来しており、万物を生み養い育てる大地にこもる富の力および、地下の財宝資源をも象徴しているが、地下の死の国の王でもある。同じくプロセルピナは、ゼウスとデーメーテルの娘で、プルートーが恋をし、地下にとじこめたが、一年に一度母神のもとに帰るようにゼウスがはからったので、プロセルピナが地上に出る春の季節には花が咲く。従ってプロセルピナは地下の豊穣と農業と春の女神ということになる。
 民間伝承に描かれている妖精たちは、土の神として麦を実らせ、牛の乳の出をよくさせてくれる精霊として信仰されていたが、ギリシャ神話の地下豊穣の女神との共通点は確かにみいだせる。また、中世ロマンスの物語『サー・オルフェオ』に描かれた死者の国=地下世界を司る妖精王と、死者の国に君臨するプルートーとは、類似している。チョーサーが妖精王と王妃を、ブルート1とプロセルピナというギリシャ名にしているのは、こうした背景からの必然があってのことであることがわかる。そしてチョーサーの妖精たちにはもはや『ベオウルフ』のようなチュートン系の暗い妖精の映像はみられない。

  大勢の貴婦人を引き連れ、
  王妃プロセルピナを従えた
  フェアリーの国の王ブルートー

 この妖精の王と女王と侍女たちは、貿易商人ジャニュアリーのすばらしい庭園の泉のほとりで音楽を奏で、舞踏をしている。裕福なジャニュアリーは、若い女房マイと結婚するが、突然盲目となり、妻が若い従僕ダミアンに心をひかれているので嫉妬にさいなまされている。ある六月の朝のこと、ジャニュアリーは妻のマイに手を引かれ、庭園に散歩に出るが、ダミアンは彼女の合図で木にのぼって身を隠していた。身重の身には青い梨の実が欲しいと言ってマイは木に登り、密通する計画であった。このことをいち早くプルートーとプロセルピナは察知して、プルートーは老人ジャニュユアリーの眼を開かせ、木の上での不義の場面を見せてしまう。プロセルピナはマイに弁舌の術を与え、盲目を治すには、木の上で男と戯れるのがいちばんだと教わったと自己弁護させ、結局は元のさやにおさめるという決着をつけていlる。これは妖精の王と女王の戯れから起こる出来事であり、盲人の眼を開かせ、弁舌の才を与えるという超自然の魔法の力を妖精たちがもっていることも示されている。このように妖精たちは人間と親しく交渉をもち、干渉までしているのである。
 チョーサーがここで用いている妖精のつづりは<fayerye>であり、さらに「バスの女房の話」では<fayerye>というつづりになっており、「サー・トパスの話」では<fayery><fairye>、<elf-queen>という語が使われている。
 「サー・トパスの話」は、当時流行していた韻文ロマンスのパロディになっており、フランドルの騎士サー・トパスが灰色の馬にまたがり槍を手に森を走っているうちに、夢の中で妖精の女王を恋人として求める決心をする。

  わたしはエルフ女王を愛そう。
  女という女はみな棄てて、
  ただ一筋に、エルフ女王を手に入れるため、
  谷でも丘でもいといはしない。

 サー・トパスはまるで狂人のように馬を走らせ、人跡の絶えた静かな地に妖精の国をみつけだすが、三つ頭の巨人に出会い、翌日戦うために武器と甲胃をつけようと町に戻ってくる。しかし、ここで宿の主人に「つまらない話だ」と言われたとして、この物語は未完で終わっている。
 チョーサーはこうした中世騎士物語に登場する妖精の女王の話や、民衆の中に信じられている超自然の力をもった妖精たちの話などを知っており、物語の中に描いているわけであるが、その存在を信じていたわけではないようである。それは「バスの女房の話」の中で、妖精について、バスの女房にこう言わせていることからもうかがえる。

 昔、ブリトン人が崇めていたアーサー王の時代にはね、この英国にはどこへ行ったってフェアリーというものがおりましたんですよ。そのエルフの女王は、浮かれ心の友達を引き連れ、いつも緑の牧場でダンスをなさるんです。これは私が読んで知った古い言い伝えで、数百年も前のことでございますがね。
 今日(きょうび)は、もうフェアリーなど、一人もいやしません。そのわけはこうなんでございますよ。
 今は正式な托鉢僧や乞食坊主が、どんな土地にも川にもやって来て、まるで太陽の光にあたった埃みたいに、いたるところにうようよして、人にえらい慈善をほどこすだの、祈祷をするだのと言います。地主の邸宅にも、広間にも、台所にも、婦人部屋にも、都会にも、町にも、城にも、その高い塔の上にも、村里にも、納屋にも、厩(うまや)にも搾乳場にさえ来て、皆を祝福している。これが、もうフェアリーが現われなくなってしまった原因でございますよ。

 そして「今では、土地をまわる托鉢僧が婦女を犯す夢魔になっている」と、チョーサーは当時の社会事情を痛烈に諷刺している。「妖精の仕業ということは人間の行為の、ある弁明なのだ」とも言いたげである。しかしまだ人々の間に、いくら迷信として否定されていたとはいえ、妖精の話が豊かに存在していたことは『カンタベリー物語』からうかがえるのであり、チョーサーはこれらフェアリー信仰を素材として、中世社会の各層の人々の考えや人情を立体的に描いていったのである。
 こうして見てくると、チョーサーは学者であり、宮廷詩人であったにもかかわらず、当時民間に伝わっていたこれらの迷信を、軽い皮肉というよりは、もう少し積極的な興味の目で見ていたようである。しかも、自分では冗談半分に妖精などは何世紀も前にいなくなったと言いながらも、彼の正確な筆づかいで風俗を写してゆけば、話の中に妖精が一切入ってこないわけにはいかなかったのであろう。それにチョーサーにすればこれほど一般読者の興味を引く、世間好みの空想的なテーマを、たとえそれが少々俗っぽいとしても、使わずにすますことができなかったのではないか。『カンタベリー物語』の妖精はそのまま、当時の都市の市民階級の間に生きていた妖精である。

『妖精の系譜』 新書館


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