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雑記帳2022-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-3-1
◆今年のNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、政治が貴族から武士の手に移り、中世を築いていく歴史の転換点を描いています。

主役の坂東武者を生んだのは栃木県です。
昔、栃木県と群馬県を一つにした広大な地域は「野(け)の国」と呼ばれていました。平安時代、国は下野(しもつけ)と上野(こうづけ)の二つの国に別れ、下野になったのが栃木県です。そして、平安末期、下野守となってこの地に赴任したのが、名高い武士の棟梁、八幡太郎源義家でした。

義家は征夷大将軍として、保元・平治の乱で奥州鎮圧の功をあげました。以来、将軍といえば、義家の血をひく源氏でなければならず、秀吉が何とかして足利義昭と繋がりを作ろうとしたけれぼ遂に将軍になれなかったのはよく知られた話です。その義家の系譜が鎌倉と室町、二つの幕府へつながっていきます。

次男・義親の系統が鎌倉幕府へつながったのに対し、三男・義国の系統は足利氏となって、室町幕府を生みました。鎌倉がわずか3代で消滅したあと、北条氏の天下の下で、足利氏は深謀遠慮の150年を耐えて8代の尊氏へつないだのでした。

義家の荘園のあった足利にちなみ、足利氏を名乗ったのは、義国の子、義康です。その子、義兼は、北条政子の妹、時子と結婚したことによって頼朝と義兄弟になりました。鎌倉殿の13人とまではいかなくても、義兼は大いに頼朝を支え、頼朝亡き後も足利氏は鎌倉幕府の中で重要な地位を占めるのですが、近づいたり離れたり、権力の中枢とは微妙な距離を保ちつつ生き残ります。問答無用の武力の下では生き残ることこそが勝者なのでした。名門といえども、北条と縁戚関係を持ちながら近づきすぎたために滅ぼされた三浦氏の例もあるのです。

宇都宮にある県立博物館では、1月から2月中旬まで、「鎌倉殿源頼朝と義兄弟 足利氏の軌跡」展がひらかれていました。後三年合戦絵巻から始まって、頼朝を支えた足利の嫡流から室町初代将軍の尊氏までの軌跡をたどるものでした。

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栃木県立博物館
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「足利氏の軌跡」展ポスター
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後三年の合戦絵巻

博物館で義家から尊氏につながる足利氏の軌跡をみたあと、市内の足利ゆかりの地を巡りました。
まずは、足利氏の祖、義兼の入定の地、樺崎(かばさき)八幡宮へ。
曾祖父、義家が創立したと言われる八幡宮に、義兼が頼朝の奥州征伐の戦勝祈願のために樺崎寺を造り、以来、足利家の菩提寺となっていました。

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樺崎町八幡宮

義兼はなかなかの知恵者で、頼朝を支えながらも、血筋からいえば頼朝に代わる将軍としてかつがれるのを避けて、呆けたふりをした時期もあったとか。
また、義経追悼のため出向いた奥州で、毛越寺や中尊寺の影響を受け、妻・時子の為に浄土庭園を造りました。その庭が復元されて八幡山の下にひろがっています。

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復元された池 義兼が妻時子のために創った

武勇にすぐれていたとはいえ、幾多の戦いで人を殺した悔いの念は強く、晩年は僧となって念仏三昧の日々をおくり、最後は生き仏として入定したと伝えられています。48歳でした。父親が入定したその地に3代義氏が堂を建てて霊をとむらいました。義兼の遺体は今も八幡宮本殿の床下に眠っています。

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今も義兼の遺体が床下にあるという八幡宮本殿

八幡山からはのどかな里山の風景が見張らせます。
宮司のいない八幡宮は氏子の手で代々大切に守られてきましたが、その氏子も、過疎化のため、いまは200人に減ったとか。寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となったあと、近年の発掘調査によって、ようやく復元されたのは庭だけで、その他は跡を示す板が立つのみ。重要文化財に指定はしたものの、足利市の財政にゆとりがないことを、案内してくれた氏子総代の斎藤さんは残念がっていました。足利市に限らず、これはどこの自治体でも同じかもしれません。
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八幡山から里を見下ろす。
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樺崎寺 多宝塔の跡

足利といえば足利学校。日本史上、最古の学校です。一説には義兼が創建したともいわれ、室町時代、上杉憲実によって再興されたとつたわっています。安土桃山の時代にはフランシスコ・ザビエルによって「もっとも有名な坂東の学校」として世界に紹介されています。江戸時代には徳川の支援を受け、方丈には歴代将軍の位牌がまつられています。
最初は孔子の儒教を学ぶ場でしたが、人気は易学、漢籍へと移り、江戸時代には8割が僧籍だったということです。明治の初めに役割をおえましたが、生涯学習の原点として、学校の「自学自習」の精神は現代にもひきつがれています。
国指定の史跡として、世界遺産認定をめざしています。

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足利学校には3つの門がある。これは学校門
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孔子は2メートルを超す巨漢だったとか、構内にある孔子像も見上げる大きさ
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方丈と庫裏

足利学校のすぐ近くに、義兼が創建した鑁阿寺(ばんなじ)があります。元は足利氏の居城でした。その跡は、寺を取り巻く土塁に残されています。
本堂の大屋根を見上げると、黄金の三つの紋章がみえます。寺の紋章と足利家の家紋と共にある菊の紋章は天皇家との縁をあらわしています。経堂は京都知恩院に次ぐ大きさとか。
戦災にも会わず、寺史によれば、創建当時のままの姿をつたえていると言われています。

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鑁阿寺本堂
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居住跡を残す土塁

県立博物館で、絵巻や尊氏の文書に混じって、弟、直義(ただよし)の御教書(みきょうしょ)が展示されていました。室町幕府成立当初、尊氏と直義の二頭政治で軍事と行政をつかいわけていたという通説に反して、直義が一時期尊氏の専権事項をさえ握っていたという新発見は、毎日新聞栃木版にも紹介されて、今回、展示の目玉になっていました。
実は私はご多聞に漏れず判官びいきです。有能なのに早死にした直義に同情して、できる弟に嫉妬する兄像を尊氏に見ていたので、この新発見には思わず「直義君、やったね」という気分になりました。が、客観的にはそうばかりも言っておられず、夢想礎石に師事した尊氏が敷いた幕府の体制が15代240年続いた事は評価しないわけにはいきません。その間に、武家と公家、僧の融合した独特の室町文化は花開き、武家政治は戦国を経て徳川250年につながるのです。尊氏の定めた儀礼は、その後も、高(こう)家の手本として、江戸幕府にも受け継がれたのでした。
後醍醐天皇を吉野に押し込めて自らが京都に幕府をひらいたことで、長い間、逆賊のイメージが強かった尊氏像が、今、見直されているということです。

栃木県の現在の県庁所在地は宇都宮ですが、廃藩置県後の一時期、栃木市にありました。
江戸時代には巴波川の水運が江戸の物資や文化をはこび、朝廷から日光東照宮へと派遣された使者(例幣使)が通行した例幣使街道の宿場町として盛えました。蔵の街として知られ、水路を生かした街づくりで、栃木は川越などと並んで小江戸とよばれています。

その栃木市で今、町おこしに一役買っているのが「とちぎ江戸料理」です。
江戸時代の庶民や旅人が食べていた料理をそのままに、今の時代に復活させたのだそうです。市内の20余りの飲食店が栃木の食材を使って思い思いに提供するメニューはすべて「とちぎ江戸料理」になります。
海のない栃木で、旅人が満足するどんなご馳走ができるんだろう。瀬戸内なら魚さえ出せばご馳走になるのですが・・・。でも、すぐに、海はなくとも鯉や鰻がある、友人から郷土料理の「しもつかれ」を教わったことを思い出しました。
というわけで、この日のお昼はシティホテルの「とちぎ江戸料理」弁当でした。

とちぎ江戸料理弁当 のコピー.jpg
左 梔子(黄染)のおこわがおいしかった
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いかにも栃木らしい鯰や干瓢の天ぷら、鯉の甘露煮、鶉の卵などなど・・



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