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医史跡を巡る旅 №105 [雑木林の四季]

安政五年コレラ狂騒曲~浦賀終章

    保険衛星監視員  小川 優 

感染者数は減少傾向にはありますが、その下がり方は緩慢です。先に山場を迎えた欧米各国では、ピークを過ぎて減少と増加を繰り返してから収束するというパターンが多く、日本もこのまま順調に減り続けるかどうかは微妙なところです。

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「人口1万人あたりの感染者数(7日間移動平均)」 ~Our World in Data

そして遅れて上昇しはじめ、今まさに増え続けているのが死亡者。人口当たりの比率では、イギリス、カナダを上回っています。

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「人口1万人あたりの死亡者数(7日間移動平均)」 ~Our World in Data

医療機関のひっ迫も解消せず、重症化してからの経過にはまだまだ注意が必要です。

さて、あだしごとはさておき。
想定外に浦賀篇が長引きましたが、今回で何とか幕を引きたいと思います。

前回の御触れの食禁をご覧になった主筆から、「当時こんなに贅沢なものがいろいろ食べられていたんだ」との感想をいただきました。いくら海産物が手に入れやすい三浦半島とはいえ、ここに挙げられていた食品を、日常的に庶民が食べていたかどうかは微妙なところだと思います。
三浦郡篇で引用した太和田村豪農が記した「浜浅葉日記」に、文久二年九月四日に来客にふるまった本膳の献立が残っています。
○皿:あじ、から芋、けん生が ○茶碗;椎茸、冬瓜、焼かます、海老、玉子とじ
○平:椎茸、肴、菜、茄子、麩 ○汁:冬瓜 ○小皿:沢わん、茄子 ○飯
○猪口:こんにゃく、かつ男ぶし掛 ○大引:海老、あじ塩焼
○鉢肴:いなだ作身、生かけん、から芋、しその実、あじすし、玉子、きす、あし丸積(ママ)、生が
所謂ハレの日の食事になりますが、魚介類ではカマス、エビ、イナダ、キスなど、特にアジが多用されています。
御触れを出した当の奉行所の与力、同心については、日常的に廻船問屋のもてなしを受けていたことがうかがわれ、水主の検死や時間外の船改めなどの際には、「酒肴一ト通」出したとの記載がたびたび見られます。禁食の食べ物、庶民というよりは、彼らお役人が普段口にしているものだったのかもしれません。

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「浦賀奉行所再現模型」 ~神奈川県横須賀市西浦賀 浦賀郷土資料館展示

浦賀奉行というものが、どういう立場であったかについても少しふれておきます。江戸幕府における奉行は、寺社奉行のように大名が任命される現在の大臣職にあたるもの、勘定奉行のような有力旗本が任じられる中央官庁長官級、さらには町奉行のような地方行政の長官まで幅広く呼称されていた役職です。いわゆる町奉行は江戸にだけおかれ、主要直轄地には長崎奉行、京都奉行など、遠国奉行と総称される役職がありました。浦賀奉行も遠国奉行のひとつで、奉行所が下田から浦賀に移転するにあたって下田奉行から改称されました。
当初は地域の民政のほか、東京湾へ出入港する船舶、その船員、乗客、積荷の検査、取締が仕事の大半を占めましたが、幕末には外国船のたびたびの来航に伴い、江戸の海防の任も担うようになります。
浦賀奉行は旗本から選ばれ、最初の頃は1000石、500俵の役職でした。一名体制で基本的に江戸住まいのため有事に浦賀にいないことがあり、のちに二名に増員され、一定の期間ごとに交代で浦賀に住むようになりました。また重要性も増したことで石高も2000石に加増されています。格的には伊勢神宮がある山田奉行や奈良奉行などより下ですが、時代劇ではありませんが廻船問屋など商人からの付け届けも多かったようで、正規の手当以上に美味しい役柄であったと伝えられます。奉行所の体制は、天保10年の時には与力が18人、同心が74人、ほかに足軽、水主が配されました。
安政五年八月時点で浦賀奉行を任じられていたのは、のちに外国奉行となる溝口直清と、前職が先手火付盗賊改加役であった坂井政暉でした。

安政五年八月二十八日の東浦賀の記録から続けます。

一、同廿八日 曇天・北風、御停止中ニ付御番所御礼無之、御役所・御組頭共御機嫌伺申上ル、
同日藤井清三郎様ゟ御内意ニ御座候は、先達而町方神輿巡行之儀ニ付而は御組頭様殊之外御懇命被下候故、御礼可差上旨東西江被仰聞候ニ付、相談之上御上江金壱両也、御用人様江金弐朱、御聞次江金壱朱、右東西ニ而差上相済、
~「相州三浦郡東浦賀村文書 諸日記」

藤井清三郎は奉行所同心のようです。この同心の言うことには、今回将軍死去に伴う鳴物停止中にもかかわらず、疫病退散の神輿巡行が認められたのは、奉行所次席である組頭が口利きをしたおかげだぞ、と。商人たちは御上に1両、御用人に2朱、御聞次に1朱包んで渡しました。なかなかに赤裸々な記録です。

八月廿九日 晴天・北風
一、御役所ゟ三方年寄御召之上、御老中間部下総守様より御渡被下候薬方書、左之通、
 (以下略)
~「浦賀書類 浦賀詰下田廻船問屋 諸御用日記」

当連載97「藤沢宿と周辺の村々 其の壱」で相模国鎌倉郡小塚村「御用留」八月廿二日の記述から引用したと同じ「芳香散」に関する御触れになります。同じ内容ですから、ここでは省略します。このあと奉行所から薬が配布されます。

一、同廿九日 晴天、北風、先達而干鰯問屋ゟ施米高御目付土屋栄五郎様ゟ内々書出候様仰聞候ニ付、則、左之通書出ス、
新井町 一、家数五拾軒 人数百九十八人 内 病人八人 外 死人壱人
洲崎町 一、家数九拾四軒 人数三百六拾八人 内 病人拾四人 外 死人弐人
新町 一、家数三拾六軒 人数百拾□人 内 病人八人 外 死人五人
大ヶ谷町 一、家数百拾弐軒 人数三百九拾四人 内 病 (ママ)廿四人 外 死人四人
築地新古両町 一、家数五拾三軒 人数九拾三人 内 病人壱人 外 死人弐人
〆家数三百弐拾五軒 人数千百七拾人 大人八百九人、但、壱人ニ付 玄米壱斗ツゝ
小人三百六拾壱人、但、壱人ニ付同五升ツゝ
此米石数九拾八石九斗五升
右人数之病人壱人ニ付金壱分ツゝ五拾五人、外死人壱人ニ付金弐分ツゝ拾四人
此金弐拾両三分也
外ニ
一、□川□多     一、番人五兵衛
家数拾八軒 人数弐拾人但、手下共 人数百弐人
〆家数拾九軒
人数百廿弐人 内 大人七拾七人、但、壱人ニ付 玄米三升ツゝ
小人四拾五人、但、壱人ニ付壱升五合ツゝ
此米石数弐石九斗八升五合
右之通御座候、以上、
一、同日地方御役所ニ而被仰渡候は、此節流行病ニ而廻船水主共多分死去いたし候ニ付、西壱番組商人ゟ施薬差出し候間、東壱番組商人ニ而も同様差出候様地下ゟ心付可遣旨被仰聞候ニ付、木市を呼右之趣申渡ス、然ル処、東ハ干鰯問屋ゟ差出度趣申参ル、
~「相州三浦郡東浦賀村文書 諸日記」

うってかわって東浦賀の方は干鰯問屋が中心となって、市中の被害状況を調査し、それに基づいて施米、施薬、そして見舞金の給付と、対策を次々と打ち出します。

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「干鰯問屋宮井与右衛門碑」 ~神奈川県横須賀市東浦賀 乗誓寺

干鰯問屋は浦賀に奉行所が移転してくる前から浦賀に店と倉を構え、主に干鰯の流通販売と、米などの物資の流通拠点として栄えてきました。干鰯は綿や藍など商品作物の栽培に必要で、人糞、堆肥に比べても輸送しやすく、近世においては重要な商品となっていました。

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「干鰯と綿花」 ~神奈川県横須賀市西浦賀 浦賀郷土資料館展示

大阪、大津、江戸が一大集散地でしたが、房総半島で漁獲されたものを上方に輸送する拠点として、元禄年間頃から浦賀が重要な地位を占めるようになります。ところが江戸時代後期になると、他地域からの参入、独占的であった房総半島における集荷先の散逸などにより、徐々に優越的な位置は脅かされるようになります。東浦賀の乗誓寺には干鰯問屋の墓地があり、往時の繫栄を窺うことができます。

九月朔日 晴天・北風
一、御役所江御停止中ニ御座候ニ付、今日御礼は御免、三方年寄・東西漁船頭・三方行事御機嫌御伺申上、御支配御組頭江も同断申上候、
一、此度諸国又は当町之悪病多流行候ニ付、浜町八良御神輿、御組様町内ゟ紺屋町迄岡方不残御廻り御座候、
~「浦賀書類 浦賀詰下田廻船問屋 諸御用日記」

日記中の記載は「八良」となっていますが、これは源為朝の別称である「鎮西八郎」のことかと考えられます。すなわち浜町にあった為朝神社の御神輿を、御組様町つまり奉行所海側にあった与力・同心屋敷から、隣の紺屋町まで担いで回ったと言うことかと思います。
続いて九月一日の、東浦賀の記述です。

一、(九月)朔日 晴天、大北風、御役所・御組頭御機嫌伺相済、御奉行様月割金先月廿八日上納可致処取込延日致、今日宮与ゟ出金三拾両也納ル、堀芳次郎ゟ仰渡之趣、此度ゟ証文之儀は其方名前ニ而御下ケ被成候間、其段相心得可申旨被仰渡候、
同日干鰯問屋ゟ町方井船々江芳香散施薬致候ニ付、其段地方御役所江御届申上候、猶五町町頭呼右之趣申渡し、病人有之候ハゝ施薬宮次江参貰ひ可申旨申渡し候、
同日新井町町頭久七跡役彦八江申付ル、同日廻船問屋ゟ町方安全・船中安全之護摩今日ゟ三日之間奉納いたし候ニ付、町々江御神燈、参詣之儀町頭序ニ申渡ス、
~「相州三浦郡東浦賀村文書 諸日記」

東西浦賀に被害状況の報告を求めた堀芳次郎とは、浦賀奉行所の与力です。翌日には書上げられ、奉行所に報告されます。

九月二日 晴天・北風
一、堀芳次郎様ゟ三方へ、先達中諸廻船水主共悪病流行ニ付、当地ニて病死致候人数三方共書上候様被仰渡候ニ付、今日書上申候、左之通
西廻船 四人 八月晦日迄
東廻船
下田廻船 弐拾壱人 九月二日迄
東西病死人調
西 六十八人
東 七十九人 九月二日迄
一、御番所ゟ行事御召出、此度流行之病気ニ付御役所より御薬被下置候ニ付、病人等御座候節ハ早速御番所江御願可申上候、尤、御薬ハ御番所迄参居候、
一、地下ゟ仲間へ申参候ニは、此度御薬町中分役人迄相下居候間、入用之節は年寄権左衛門預り居候ニ付、此段心得居候様申参候、
一、御番所江三方老分之者御召出、今日御役所ゟ御下被下置御薬之儀、諸廻船会所江船頭上陸之節、船中ニ病人等無之哉之趣承、若有之候節は早速御番所江御薬御願可申上候、尤、御薬に代料記有之候得共、代料ニハ不及申候間、此段相心得可申渡候と被仰渡候間、部屋々々江相触置候、
一、浜町八良大明神御神輿、先日町内ゟ紺屋町迄悪病流行、右ニ付御廻り被成候処、又々田中町・宮下町・築地古町、右町々ゟ相願候ニ付、今日御廻り被成候処、宮下町ニて夜ニ入候間、御掛り様江御願申上候故、同夜ハ明神様御社江御神輿御泊被成候、明三日御残り之町々江御廻り被成候趣、浜町一同引取申候、
~「浦賀書類 浦賀詰下田廻船問屋 諸御用日記」

一、同二日 晴天、北風、地方御役所ゟ八月八日ゟ晦日迄死人町々ニ何人、外廻船水主何人取調可申出旨被仰付候ニ付、左之通書上ル、
新井町死人拾五人内 男拾人 女五人  洲崎町拾六人内 男拾人 女六人
新町廿壱人内 男八人 女拾三人  大ヶ谷廿四人内 男□□ 女□□
古町三人内 男弐人 女壱人  〆七拾九人内 男四拾三人 女三拾六人
外廻船水主・東問屋問船斗り五人
右書上相済、
~「相州三浦郡東浦賀村文書 諸日記」

この一節は浦賀前篇でも取り上げましたが、東西浦賀住民と廻船水主の病死者数が明らかになります。
ところで平時であれば、船中病死、あるいは事故死した廻船水主の遺体は、附舟宿が寺院に葬りました。

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「常福寺」 ~神奈川県横須賀市西浦賀
浦賀奉行所から愛宕山を挟んだ位置にある常福寺は、御用寺院として奉行交代の際に利用された格式の高い寺院です。

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「客船之墓」 ~神奈川県横須賀市西浦賀 常福寺

境内には「客船之墓」と刻まれた2基の墓碑があり、一方は天明から天保にかけて14人、もう一方は安政四年に建立されて「亀竜丸」および8名の名が記されています。前者は没年月日がバラバラですから病死か事故死、後者は全員が安政4年5月18日で、船名も書かれていることから、海難事故でもあったのでしょうか。

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「大衆帰本塚の碑」 ~神奈川県横須賀市西浦賀

ところが安政五年(1858)は住民にも多くの死亡者が出たせいで、おそらく埋葬が追い付かず、水主の供養までは手が回らなかったことが考えられます。旧浦賀警察署隣に「大衆帰本塚の碑」があります。碑文には、町はずれ、山辺の荒れ野に身寄りのない遺体や、客死した遺体が放置され、荼毘の煙もたなびいていたが、町が広がって、近くに人が住むようになった。そのため元治元年(1864)に、墓地と火葬場を移転させて、散乱する骨を一カ所に集めて供養した、と書かれています。安政五年に病死した水主の遺体も、この中に含まれていたことでしょう。

九月初旬には、流行は下火になったようです。医薬品の配布に続き、被害状況を把握した上で、官民力を合わせて救済に努めます。

一、同四日 晴天、北風 地方御役所ゟ東西浦賀病気流行後極々難渋之者可有之候間、書上候様被仰付候ニ付、昨日定御廻り衆江書上候通り五町書上申候、
一、同六日 晴天、北風、地方御役所江書上候極々難渋人江御救米廿日之間被下置、尤、大人壱人一日五合・小人壱人一日三合宛、被仰渡書左之通り、
流行病気井米価高値ニ付、極難渋、□□□名面之者江御奉行御手元米為御救日数廿日分之飯米被下置、
但、大人壱人一日五合、子供壱人一日三合之積り、
右之通被下候間、夫々割賦頂戴可為致候、(以下略)
~「相州三浦郡東浦賀村文書 諸日記」

疫病により米価が高沸している中、一家の稼ぎ頭を失って困窮している家庭に奉行所から二十日間分の食糧が交付されます。

一、同十一日 晴天、北風、祭礼当番ニ相当り候得共、御停止中之事故日延御願、左之通り、
乍恐以書付奉願上候
一、鎮守叶明神祭礼之儀、隔年御輿町方巡行可致旨被仰付、然ル処、当年年番ニ相当り候得共、御当節柄之事故何卒当十一月迄日延仕度、尤、当日御輿巡行日限之儀は其節ニ至り御届奉申上度趣、小前一同ゟも此段御聞済被下置候様奉願上候、以上
安政五午年九月十一日 年寄 惣兵衛 同 三郎兵衛
浦賀 御奉行所様
右願書御聞済ニ相成候ニ付、永楽寺・五町井両船手世話人江申渡ス、
同日御差紙ニ付罷出候処、三郎兵衛名主役・八太郎年寄役被仰付候、委細別帳ニ有之、尤、先例と事替り候事、
~「相州三浦郡東浦賀村文書 諸日記」

九月十五日 雨天・北風
一、御役所江御礼之儀は御停止中ニ付、西・下田年寄・行事御機嫌御伺申上、御支配
御組頭様江も同断申上候
一、今日明神御祭礼ニ付、拝殿ニて御神楽御座候て相済申候、尤、当年ハ西ハかげ祭・東浦賀ハ年番ニ候得共、流行之悪病ニて病死人多、火ニ掛り祭礼出来不申に付、十一月迄相延し御願申上候由承り候、
~「浦賀書類 浦賀詰下田廻船問屋 諸御用日記」

九月も半ばになると、記録にコレラ流行をうかがわせる記述はなくなります。ただし残された傷跡は深かったようで、鎮守である叶神社の祭礼を十一月に延ばすことを、奉行所に願い出ています。こうして安政五年浦賀のコレラ騒動は終息したのでした。



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