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海の見る夢 №26 [雑木林の四季]

-That Old Black Magicー

       澁澤京子


~偉大なジャズミュージシャンがやっていたことは、自分自身であり続けたことだ~
                      ロバート・グラスパー

ある時、中目黒から渋谷に向けて散歩がてら歩いていると、長い脚とかっこいいお尻の黒人の女の子が二人、絶え間なくおしゃべりしながら歩いている。同方向を歩いている私は追い抜いたり、追い抜かれたり。彼女たちの歩くリズムと絶え間ない言葉のかけあいが、見事にヒップホップミュージックになっていた。

ライプニッツは「音楽は霊魂の数学」と言ったけど、「音楽は身体の数学」でもあるのかもしれない。ラジオから流れてくる歌声で、すぐに黒人歌手とわかるのは彼等の声質がなめらかで弾力があってリズム感が優れているせいだ。ナットキングコールの演奏するピアノは、その歌声のようになめらかで、そのなめらかさは身体運動のしなやかさと関係あるんじゃないかと思う。(もちろん、ダンスの下手なアフリカ人を昔見たことがあるので一概にいえないが)

「音楽は身体で聴くもの」という事を教えてくれたのは、ソウル、ジャズ、ブルーズなどビートのきいた黒人音楽。フラメンコ音楽に夢中になったのも、やはりその複雑なリズムに魅了されたからだ。アフリカ音楽には、高度に複雑で洗練されたリズム(ポリリズム)がある。独身の時、最後に行ったのが、宮益坂に出来たばかりのヒップホップ専門の小さなディスコ。フロアでは、その頃は目新しいヒップホップダンスが披露されていて、すでに自分が時代遅れになっていることを痛感したのであった・・ヒップホップの単調なリズムはそのうち飽きられるだろうと思ったら今も続いていて、常に新しく言葉のメッセージが込められるからだろうか・・それに対して、ジャズは言葉ではなく、音楽そのものがメッセージ。

ジャズ→ブルーズ→ワーキングソング・・と遡っていくと西アフリカに行きつくらしい。ボサノバ、サンバのルーツと言われるのもヨルバ族(西アフリカ)の宗教で、西アフリカは人類の音楽の宝庫の地か。

~良い音楽家の音楽には善い聖霊が、悪い音楽家の音楽には悪い聖霊がひきよせられる。
~私たちは此の世で努力しなければいけない、というよりアフリカの過酷な気候が怠惰を認めないのである。
『アフリカの智慧、癒しの音』ヤヤ・ジャイロ著(西アフリカ・マリ共和国出身の音楽家)

西アフリカでは、音楽は見えない世界とつなぐ神聖なもの。音楽とダンス(アフリカ人にとって音楽=ダンスで不可分のもの)によって人々はトランス状態になって見えない世界と交信する。西洋のように聖と俗の分離のないアフリカでは、聖なるものも美も、すべては生活の中にある。ヤヤ・ジャイロが育ったミニアンカ族では、悪霊は人と人を仲たがいさせたり、人を狂気に導く邪悪なものとされるらしい。悪霊に近寄らせないための最良の方法は、人と人との調和と信頼関係で、そのために、音楽の持つ調和はとても重要なものなのだ。ミニアンカの音楽家は医師(特に精神病の治療を行う)であり、立派な人格を備えていないと治療者になれないという。水の精霊がいたり樹木の精霊がいたり、火の精霊、動物の精霊・・彼等は神話のような世界に住んでいるのである。動物を殺したり樹木を伐採すると、ニャマという呪いにかかるので、狩人や木こりは注意深く仕事をする。アフリカの音楽が素晴らしいのも、彼等が、言葉が通じなくとも他人の心の動きに非常に敏感といわれているのも、いつも厳しい大自然とコミュニケーションしながら暮しているからかもしれない。

~奴隷制度以後、自分の生活からできるだけニグロ文化を消そうとしはじめた黒人は、まさにこの行為ゆえにあるタイプの「ニグロ」になったのだ。~『ブルース・ピープル』リロイ・ジョーンズ

共同体の生活をしていて「個人」という概念を持たなかったアフリカ人は、西洋文化に接することによって「個人」にならなければいけなかった。そして「個人」としての黒人の悲しみや喜びを表現したのが、初期のブルースで、黒人文化の共同体の伝統を消すことによって、逆に彼等の個性と魅力が発揮されることになった。

ストラヴィンスキーも絶賛したクラシックピアニスト、ドン・シャーリーと彼のお抱え運転手兼ボディガードであるトニー・リップの友情を描いた『グリーン・ブック』(グリーンブックはアメリカ南部の黒人専用のホテルを載せたガイドブック)は何度も観た好きな映画。天才少年として子供の頃から白人上流社会にファンを持つ黒人ピアニスト、ドン・シャーリーと、貧しい育ちで喧嘩早いイタリア系のトニー・リップという、育ちも教養も何もかも正反対の二人が、黒人差別の激しい南部を旅しながら、何度も喧嘩したり、御互いを守ろうとしているうちに、

様々に友情が育ってゆくという実話を基にしたもの。クラシックピアニストとして白人社会でちやほやされながらも黒人としては差別されるドン・シャーリー。そのため、人を寄せ付けないような構えた気取りのポーズで、常に自身を防御している。裕福なために、黒人の本当の貧しさを知らず、また、同性愛者であるために誰にも気を許せず、どこにも自分の居場所を見いだせない孤独なドン・シャーリー。そして、彼が何処にも自分の居場所を見いだせず、すがるアイデンティティなどどこにもないことを悟った時に、はじめて彼は独自の演奏スタイルを見つけるのだ・・

人は自分の外側にあるものにしがみつこうとしている限り、決して本当の自分には出会えない。人種であるとか出自とか肩書きなどの世間体は、その人の仮面にしかならないだろう。(最初は仮面のような気取った表情のドン・シャーリーが、トニー・リップとやりとりしているうちに怒ったり笑ったり、徐々に人間らしくなってゆくところがこの映画の見所)

そして、トニー・リップもドン・シャーリーと出会う事によって、やはり変わる。イタリア系移民としてやはり差別されているトニー・リップ。彼とドン・シャーリーはお互いを合わせ鏡のようにして、差別されて傷ついているはみ出し者の自分の弱さを知る。二人は御互いを観察することによって、御互いの中に自分の弱さを見つけ、それを受け入れられるようになるのだ。自分のあるがままの弱さを受け入れられないと、いつまでも虚勢を張り、他人には素直に心を開けず、他人に無関心のまま、頑なに自分の殻に閉じこもるということになる。自分の弱さと向かい合い、すべてを受け入れた時にはじめて人の精神は成熟するのだと思う。

マイルス・デイヴィスは決して他人をジャッジしなかった。(その代わり気に入らないとバッサリ縁を切ったらしいが・・)それどころか、演奏中の仲間のミスを、即興で新しい音楽に創作する事も出来た。私の周囲を見ても、成熟した精神の人ほど他人をジャッジしないし、他人の美質を見抜く目を持っている、常に、自分の事だけじゃなく、全体を見ることができるからだろう。そして、ジャズミュージシャンが周囲の人の状況に敏感なのは、そこにはしっかりした信頼関係があるからで、状況を的確に察知する能力も、人を(わかる)のも愛なんだと思う。

ブルースから派生したジャズが、アフリカ音楽でもなく西洋音楽でもない、きわめて独自のスタイルを持つのも、演奏者が全員,個人個人の自律を求められ、一つになった音楽のうねりの中で自由な演奏をするのも、皆が芸術的な表現を追求しているからであって、ジャズの中では、民族・文化の違いなどは払拭される。他人と競争して優劣を競うよりも、自分の本当の居場所を見つけた方がずっと幸福なのだ。そして、居場所というのは空間ではなく、目に見えないが居心地のいい、人と人との信頼関係にあるのだと思う。

ドン・シャーリーとトニー・リップ。まさに運命的としか思えないこの二人の出会いと友情は死ぬまで続いた。


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