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梟翁夜話 №106 [雑木林の四季]

「時の有機性を考える」

       翻訳家  島村泰治

いま将にAI時代真っ盛り、巧みなDG技術を駆使して人間並のロボットが登場してをる。生の人間と並ぶと、一瞬戸惑うほどに精巧だ。が、じっと見つめれば流石に生の人間を見誤ることはない。見分ける鍵は有機性だ。生々しいさ、血が通っている感がポイント。

さう、有機無機の分かれ目は血流の有無、つまり生体感の有る無しが決め手だ。何を今更と訝る向きもあろうが、実は二つの“機”を取り違えることがままあるのだから、人の感覚とは不思議なものだ。本稿で触れる事柄は、歳の違いで見え隠れするもので、年齢層に依っては納得できぬとしても不思議ではない。

それは、かう云ふことだ。

「大きな古時計」と云ふ哀感豊かな歌がある。時を刻み続けてきた大きなのっぽの古時計が、お爺さんが百歳(原詞では九十歳とか)で亡くなると動かなくなった、と。口ずさめば、お爺さんの後を追うかのやうに止まった時計が、あたかも生きものに思えてくる。二本の針が腕のやうに、振り子が心臓のやうに、ある日それがはたと動きを止める・・・。詩情溢れる有り様だ。

この歌の妙なる魅力は、どうやら仄かに滲む生体感にある。時計は時間の流れを刻む絡繰(からくり)、時の経過の尺度にすぎぬ無機物そのものだ。さて、この無機のツールを生きもの、つまり有機物と感じる情感は詩人だけの特性か。ひと様々に分かれやうが、この感覚は詩情云々もあらうが年齢に正比例して強まるやうに思へてならぬ。

誰方(どなた)でもさうだと同意されやうが、時を知らぬ幼時にはそんなもの無限にあるやうに思った、と云おうか、時そのものを意識していなかったと云ふべきか。自律性も未だ育たぬころは更なり、生活とはただ時々の状況に対応するだけの作業で、時の存在など埒外だった筈だ。

十代から二十代へ、周囲に小社会が出現し物ごとが時間単位で動くのを見知って、「時の存在」を初めて意識する。時間の長短と密度の有り様を学び、その活用如何の功罪を知る。そして実社会に出る、そして時間を座標に動いている現実を見る、やがて管理社会の動力としての時間の素顔に気付くのである。

そして定年、追々に、退職なり退官なり、現職を退くなりすると、ある日不図「時」が止まる、否、消えるというのが実感か。それまで定率でこつこつと動いていた時がはたと途絶える。手持ち無沙汰という名の惰性が横行する。その齢(よはい》に達すると、無神経な輩はいざ知らず「時」に敏感なものはじっと沈み込む、矢鱈に月日が早く過ぎると感じるやうになるものだ。

もの思うものはそこで考える。残り少ない年月がかくも素速く経過していいものか、これはうっかり出来ぬぞと考え込む。かく云ふ筆者が将にその域に来ており、日々と言わず日夜そのことが意識を離れない。時速は定値ならず、幼時のそれと今のそれとは、あたかも似て非なる生きものの如し。全く流れる速度が違うのだ。

このような感覚は歳を取って初めて判るもので、若いものの窺い知れぬ境地だ。有り余る時間に埋もれるものにはそれを客観視できぬが道理、筆者自身にして四、五十の働き盛りには歳の角々の出来事には毛程の記憶もない。が、いま傘寿の半ばを過ぎ、五入すれば白寿も臨める域に来ると、何と「時」がミリ単位で刻むのが見えるのだ。残る余命を年単位は云ふに及ばず、月日でもなく、何と時分秒の単位で測らうと思ふやうになる。耳元に秒針の音が常に聞こえる、そんな境地なのだ。

この域に住まふ更に神経の細かい輩は、これではならぬ、如何に過ごしべきやとて思ひを巡らす。彼らは残余の時を投じて成せる業は何かと自問自答、「時」を裁量塩梅してその成就に日々勤しむ。彼らが過ごす時間はグラム幾ら程に貴重だ。努力の実りをしかと結ぼうと、百歳など然るべき年齢を指標として掲げ、人参を追う驢馬の如く、それを目指して貴重な時を刻むのだ。

何ともテンションの高い話だ。


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