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多摩のむかし道と伝説の旅 №75 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅
                        -幻の旧五日市鉄道廃線跡を行く-1
             原田環爾

 多摩にはかつて鉄道が走り今は廃線となった所がいくつかある。その一つに五日市鉄道、通称「五鉄」がある。大久野の勝峰山の石灰石を川崎へ輸送するのを主目的に敷設された鉄道だ。現在は武蔵五日市線として拝島-武蔵五日市間だけになっているが、戦前は立川-拝島-五日市-武蔵岩井間を走っていた。このうち立川-拝島間の五日市鉄道は今の青梅線よりはるか南の多摩川よりを迂回するように走っていた。停車駅は立川を出ると、「武蔵上ノ原」、「郷地」、「武蔵福島」、「南中神」、「宮澤」、「大神」、「武蔵田中」、「南拝島」を経て拝島へと繋がっていた。しかし戦争も激しくなった昭和19年(1944)青梅線と競合する立川-拝島間は廃止となった。

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 五日市鉄道の歴史をもう少し詳しく述べてみよう。大正14年(1925)、私鉄の五日市鉄道として拝島-五日市間で開業した。しかし資金難に陥り浅野セメントが買収、浅野セメントは当時のセメント需要を見越して大久野の勝峰山の石灰石採掘を計画し、翌年武蔵岩井迄延長した。こうして武蔵岩井から拝島まで五日市鉄道で送られた石灰石は、青梅鉄道、中央本線、山手線、東海道線を経由して川崎へ輸送されていた。 昭和4年(1929)南武鉄道が開通すると浅野セメントはこれを傘下に置き、立川から川崎へ直接輸送できるようになった。昭和5年(1930)五日市鉄道は拝島-立川間を青梅鉄道とは別に新たな鉄道を敷設して南武鉄道に接続した。その結果勝峰山の石灰石はすべて自前の鉄道で川崎工場へ直送されることになった。しかしながら昭和19年(1944)国有化されると、同年青梅線と平行する立川-拝島間は不経済ということで休止になってしまった。その後昭和46年(1971)国鉄の経営合理化により武蔵五日市-武蔵岩井間の旅客営業は廃止され、更にトラック輸送への転換に伴い、昭和57年(1982)貨物線も廃止され、現在の拝島-武蔵五日市間だけが武蔵五日市線として残ることになったという。この辺の事情は山田俊明著「多摩幻の鉄道 廃線跡を行く」(のんぶる舎)に詳しく記載されている。

1-2.jpg多摩の廃線跡はその多くが緑道や遊歩道に整備されて残されているが、立川-拝島間の五日市鉄道廃線跡は住宅や車道となってその痕跡を見ることは困難になっている。わずかに立川駅-旧武蔵上ノ原駅間だけが今も現役の青梅線の一部として残されている。今回は今や幻となった五鉄廃線跡を追う謎解きの旅をしてみたいと思う。すなわち立川駅から中央線に沿って立川南通りに入る。四小前(旧上ノ原駅)、都立短大前(旧郷地駅)を経て五鉄通りに入り、昭和公園南縁から旧武蔵福島駅を経て中神停車場通り(旧南中神駅)と交差。次いで諏訪松中通り(旧宮澤駅)と交差する。JR八高線のガードをくぐって(旧大神駅)、新奥多摩街道との合流点(旧武蔵田中駅)に出る。この後は新奥多摩街道を西へ進み、農協前(南拝島駅)で拝島停車場通りに入り拝島駅へ至る。

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  立川駅北口から山田電機のある西へ向かう通りに入る。次の信号で辻を左折するとJR線の南側へ抜ける地下道がある。地下道に入ると中ほどに右へ上がる階段があり、上がったところは駐輪場で左が中央線、右が青梅線の分岐点の真ん中になっている。駐輪場を抜け左手の中央線沿いの小道に入る。小道は上り坂であり、そのため中央線は次第に切り通しになって下って行く。ひっきりなしに走る電車や列車を見下ろしながら進む。線路をよく見ると中央線のすぐ南側に次第に築堤を高めながら走る線路がある。青梅線のバイパスで、これこそ今回のテーマである旧五日市鉄道の名残である。小道を上りきると中央線の上を越えてきた青梅線(旧五日市鉄道)の踏切に出る。踏切を渡るとそこは立川南通りの中央橋の袂である。もちろん中央橋の下は中央線が走っている。旧五日市鉄道はこの後は立川南通りに沿って走っている。(この高つづく)


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