SSブログ

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №76 [文芸美術の森]

                    喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ
                       美術ジャーナリスト  斎藤陽一
                      第4回 寛政三美人 その1

76-1.jpg

≪寛政三美人≫ 

 寛政年間、喜多川歌麿は数々の美人画を生み出していきました。
 今回は、歌麿が寛政5年頃(1793年頃)に描いた有名な「当世三美人」(通称「寛政三美人)を鑑賞します。

 この絵では、当時、江戸で評判の3人の美女を三角形の安定した構図で描いています。
 三人とも、胸から上を「バストショット」でとらえたサイズで描かれ、このような上半身像を「大首絵」(おおくびえ)と言います。
 これまでの「女絵」(美人風俗画)では、多くが女性を全身像で表わしていました。ところが歌麿は、版元・蔦屋重三郎のもと、大胆なクローズアップでとらえた「大首絵」を次々と制作・刊行し、大きな評判となったのです。

 この三人の顔を見ると、一見、みな同じように見える。歌麿は、美人画では、女性の顔の個性や表情を決して露わには描かないのです。
 先回に紹介した、昆虫や草花、貝類、鳥などの描写に見られる正確な観察力と精緻な写実力を見れば、人間を描くときにも、容貌や表情、仕草などの個性を描きかけることも容易に出来るはずです。
 しかし、あえてそれをしないで、抑制した描き方をしている。モデルの個性とか喜怒哀楽の表情を露わに描くことは、ともすれば、全体の風情を壊しやすいことを知っているからです。「歌麿の描く女性には気品がある」と言われる秘密は、そんなところにあります。

≪「引目鉤鼻」の伝統≫

 歌麿が美人画を描くときの美意識の根底にあるのは、「リアリズム」ではなく、いわば「象徴主義」でしょう。
 これは、古くは平安時代末期に描かれた国宝「源氏物語絵巻」の技法「引目鉤鼻」(ひきめかぎばな)以来の伝統を踏まえている、という見方もできます。

76-2.jpg

「引目鉤鼻」とは:
 「目」は一本の線を引くように描くので「引目」(ひきめ)と呼ばれる。
 「鼻」は「く」の字のように鉤型(かぎがた)に表すので「鉤鼻」(がぎばな)と呼ぶ。
 「口」はごく小さく描く、というもの。

 元来、人間の顔というものは、喜怒哀楽といった感情を反映しやすいものです。しかし、王朝絵巻などでは、「引目鉤鼻」描法により、貴族を描く時には、男女を問わず、あえて顔を記号化し、類型化し、表情をあらわには描かない。

 これは、顔を描く技術の拙劣さから来ているのではありません。国宝「源氏絵巻物語」と同時代の絵巻である国宝「伴大納言絵巻」や国宝「信貴山縁起絵巻」を見ると分かるように、庶民たちは、それぞれの感情や性格を露わにした顔つきで描かれている。ですから、貴族を描く場合だって、描こうと思えば、一人一人に個性を与えることもできたはずです。

 ここで清少納言の『枕草子』の一節を引用します:
 「絵に描きて劣るもの、・・・物語にめでたしといひたる男、女の容貌(かたち)」
(「絵に描いたら劣ってしまうものは、魅力的だと言われている男や女の容貌である」)

 つまり清少納言は「物語に登場する美男美女は、どのように描いても、絵に描いてしまったら劣ってしまう」と言っているのです。
 確かに、これまでテレビや映画において、「源氏物語」が制作・上映され、その時々の代表的な美男俳優が光源氏を演じましたが、演技力や演出とは関係なく、おおむね興覚め、といった印象を視聴者に与えるのを避けることはできませんでした。 

 物語文学の読者たちは、それぞれが理想の男女を思い描きながら、想像の中で物語を楽しんでいます。画家がいったん自身の好みによる男や女の顔を絵にしてしまったら、絵を観る人たちのイメージはそれに限定されてしまう。それぞれに理想のイメージを創り上げて物語を楽しんでいるすべての人を満足させることは至難の業なのです。

 それならば、いっそのこと、貴族たちの顔は「記号化」し、「抽象化」して表した方が、鑑賞者個個人の感情移入を容易にし、主人公の内面や心理までより深く想像することを可能にし得る。何よりも、あえて感情をあらわにしない顔つきのほうが、気品や優雅さを表現できる。こんな風に考えて導き出された画法が「引目鉤鼻」でしよう。

 歌麿の美人画を理解することにもつながると思い、「引目鉤鼻」の描法について、やや長々しい説明になりました。

≪三人三様、微妙に描き分け≫

 この三人の美人も、どれも同じように見えるのは、顔つきの個性的表現を心掛けるよりも、美女というものの全体的な「風情」を抑制的に表現しようとしているからです。
 とは言え、よく見ると、その中にも、目の形や鼻筋の線、顔の輪郭、眼鼻の配置、さらには、着物のデザインや着こなし、それぞれの持ち物といったところで、実に微妙な描き分けかたをしていることが分かります。

76-3.jpg

 この絵に描かれた三人の身元を紹介しましょう。

 中央が「富本豊雛」(とみもととよひな)。「富本節」という常磐津節の分派の名取の芸者です。
 右下が「難波屋おきた」。浅草の水茶屋「難波屋」の看板娘で、当時17歳。
 左下は「高島おひさ」と言い、両国薬研堀米沢町で老舗の煎餅屋を営む高島長兵衛の娘です。父の長兵衛はほかにも水茶屋を経営しており、おひさはその水茶屋に出て、評判となっていました。彼女も当時17歳でした。

 実は三人の身元は、絵の中にさりげなく描き込まれた「紋どころ」によって判る仕組みとなっています。
 上の図では、少々分かりにくいかもしれませんが、「富本豊雛」の着物には「桜草」の紋があり、「難波屋おきた」が持っている団扇には「桐」の紋。これは難波屋の家紋です。また「高島おひさ」が着ている着物に「丸に三つ柏」の紋。こちらは高島家の紋です。
 当時の江戸っ子は、この目印によって、どこの娘かが分かったと言います。

 一人一人の微妙な描き分けについては、次号で紹介したいと思います。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。