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現代の生老病死 №12 [心の小径]

現代の死

     立川市・光西寺  寿台順誠

(3)現代の死苦

 それで、以上のような状況における「現代の死苦」について、私は次のように表現しておきたいと思います。すなわち、「お任せ出来る人も頼りになる世界も失って、そもそも自分では決定出来ないことまで自己決定すべきだという強迫観念に苛まれる苦」と。「お任せ出来る人」というのは家族等の親密な人間関係のことで、「頼りになる世界」とは安心出来る故郷や所属団体、或いは極楽浄土のような来世のことです。現代人は、そうしたものを失ってしまった中で、本当は自分では決められないことまで「自己決定すべき」という強迫観念に苛まれていると言えるのではないでしょうか。私にはそのように思えます。
 しばらく前のことですが、テレビで生命保険の宣伝を見ていると、最後に「お葬式の費用も付いてるよ!」などと言うのがありました。要するに、後の人に迷惑をかけないように、葬式の費用は自分で貯めておかなきゃならないということでしょう。でも、葬式というのは、後の人が先人を追悼するためにするものではないでしょうか。その意味では、後の人の学びのためにすることだと思うのですけどね。とにかく、あのようなコマーシャルを見ていると、何か世知辛い感じがするのです。死んだ後のことは、後の人に任せればよいのではないでしょうか。確かに、うちの光西寺の墓を見に来る人の中にも、子どもに迷惑をかけたくないという人は多いですが、それは善くとれば子ども思いだとも言えるでしょうが、悪くとれば任せられないのではないか、或いは信用してないのではないかとも思えるのです。つまり、家族も解体し、地域コミュニティもズタズタになってしまった中で、頻りにあなたはどんな死に方がよいのか決めてもらわなくては困る、などと言われている気がするのです。でも、もうお任せするから適当にやって下さい、と言いたくなりませんか。このように自己決定が迫られること自体が「現代の死苦」ではないかと私は思うのです。

(4)現代の死と仏教-終活と浄土真宗

 ところで、こうした死の自己決定ということに関連して、近年「終活」ということが流行しましたね。以前は「しゆうかつ」と言えば、それは「就活」、つまり「就職活動」のことに決まっていました。しかし、2009年に『週刊朝日』の「現代終活事情」という連載記事で、介護・看取りから遺言・遺品整理や葬儀・墓に至るまで、死にまつわることをすべてひっくるめて扱うためにこの言葉が初めて使用されて以来、「終活」は2010年に新語・流行語大賞にノミネートされ、2012年には新語・流行語大賞のトップテンに入るまでになりました。
 私は前に研究仲間と一緒に、2009年から2014年の途中までの「終活」に関する図書と雑誌記事をすべて調べたことがありますし、又その際、クラブツーリズムの「散骨疑似体験ツアー」とか「樹木葬見学ツアー」に行ったり、「終活フェア」や「ェンデイング産業展」等も回ったりしてみました(18)。その頃はテレビでも盛んに取り上げられていましたね。そうした場所では、「散骨もいいわね」とか「やっぱり樹木葬よ」とか、或いは、「棺桶に入れてもらう時には、こういう着物がいい」とか「何なら入棺体験もしてみようか」とかということが言われていました。又、終活フェアでは「自分史作成コーナー」とか「あなたの生涯の映画を作れます」とかといったことまでありましたね。しかし、私はそういうことを観察しながら、これは本当に「死」というものに向き合っていると言えるのだろうか、単なる「死の商品化」ではないだろうか、というような思いを強く持つようになりました。それで「終活」にはいささかウンザリしてしまいました。最近は関連するテレビ番組も減って、少し落ち着いてきた感じもしますが、皆さんはどう思われるでしょうか。
 そこで、こうした「終活」に対して浄土真宗はどういう立場を取るべきだろうかと考えた時に思い出したのが、「不来迎」という浄土真宗の立場です。親鸞聖人は有名な御消息の中で、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず」(『真宗聖典一束燈紗』600頁、『浄土真宗聖典-註釈版第二版-』本願寺出版社、2004,735頁)と言っておられます。「来迎の儀則」というのは臨終における聖衆来迎の儀式のことですが、これは要するに当時の流行として浄土に往生するためには臨終に来迎(お迎え)を求めることが必要だと多くの人が思っていたところで、「信心の定まるとき往生また定まる」ので、臨終に特別なことをする必要はないと言い切られたということです。後にこの浄土真宗の立場は、「平生業成」(生きている平生に往生の業事が成弁=完成する)という言葉で定式化されました。私はこれを現代に応用するならば、いわば「終活無用」という事になるのではないかと思う訳です。
 終活というと、「葬儀で飾る花はこの色がよい」とか、「この音楽を流してほしい」とかといったいわばハウツー的なことばかりに時間をかけている気がしますが、私はそれではあまりに時間が勿体無いと思います。私は儀礼のハウツー的なことは一般的なことで済ませておけばよくて、それよりももっと、宗教者や哲学者の言葉などを参考にしながら、故人の生涯について語り合ったり、各人が自分の言葉で追悼行為をしたりして、誰でも「死すべき者」として「死」という問題の本質について考える場にした方がよいと思うのです。それに対して、「終活」というのは、あまりにも商業ベースに偏り過ぎている感じがするというのが私の考えです。浄土真宗ならば、いっそ教団を挙げて「終活無用」という立場を打ち出したらどうでしょうか。

註(18) 寿台順誠・横瀬利枝子・大桃美穂「市民主体のACPは可能か?-「終括」を通して考える-」(第26回日本生命倫理学会年次大会公募ワークショップ「なぜアドバンスケアプランニングなのか」発表スライド及び配布資料、2014年10月26日)参照.

 名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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