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海の見る夢 №25 [雑木林の四季]

海の見る夢
   -ムーヴィン・アウト~ビリー・ジョエル~
               澁澤京子

 昔、ビリー・ジョエルの「ストレンジャー」がヒットした頃、ビリー・ジョエルの歌で私が好きだったのはむしろ「ムーヴィン・アウト(引っ越し)」だった。歌の途中で「・・カ・カ・カ・カ・・」と、まるでレコードがひっかかるようになるところが何ともいえず、いい。(当時はまだレコード)ちょうどバブル真っ盛りの時代で、その頃はあまり歌詞の内容を気にしてなかったけど、これはアンチ・国家の歌だったのである。~いい車を買うために、政府に多額の税金納めるためにせっせと働くなんてまっぴらさ~といった内容。

かつて日本は「限りなく社会主義に近い民主主義国」と言われていた時代があった。だけど、小泉元総理の構造改革導入あたりから徐々に状況が変わってきた。その頃、構造改革導入に反対するのは、アメリカの格差社会を日本に持ち込むな、とか金儲け主義を日本に持ち込むなと言った、アメリカ生活の経験のある人達が多かったように思う。

構造改革導入と同じ頃、ブッシュ元大統領の「究極の自由の闘い」の演説がブラウン管に流れ、中東にボランティアに出かけた日本人学生数人が人質になるという「イラク人質事件」が起こる。ネットでは人質を非難・罵倒する声がすさまじく「自己責任」「人に迷惑をかけるな」が、まるで此の世で最も大切な道徳はその二つであるかのごとく、ヒステリックに連呼されていた。

新自由主義のブッシュのネオコンが台頭してきたのと同時に、日本はどんどん右傾化し、閉塞感が蔓延するようになり、日本全体が、『イージーライダー』に出てくる保守的で閉鎖的な南部の田舎町のようになってきた。

そもそも市場原理主義の自由の立場から見れば外国人労働者もオープンに大歓迎ということになるはずだが、実際は、ベトナム人実習生に対するいじめとか、中国、韓国人に対する差別とか耳をふさぎたくなるようなニュースが多い。日本において、排除や差別は実に陰湿な形で横行する・・

「自己責任」という言葉も次第に日本に浸透してきたが、逆に、画一的になってきた今の日本では、成熟した(自律的な)自我を持つ強い個人が極めて育ちにくくなっているんじゃないだろうか。未成熟な自我の人間は、他人を否定することによって自身のプライドを守ろうとする。未成熟な自我の弱さが集団連鎖して引き起こされるのが、中国人韓国人差別やベトナム人実習生に対するいじめだろう。幸田露伴が言うように「弱則悪」なのである。

民主主義とは本来は「友愛」が絆の、横の対等な人間関係であり、基本にあるのは個人で、成熟した大人の自我が必要とされる。つまり、自律した強い個人であり、自分で考える自由が尊重されるので、周囲の人間に流されにくいが、中には逸脱して自分勝手な行動をとる人間も多い。それに対して、縦の人間関係は支配被支配の関係であり、そこでは命令と服従、命令に従う従順さと忠実さが求められる。軍隊、官僚それから組織にはこうした縦の人間関係が多く、和を乱さないが、忖度や足の引っ張り合いが多く見られるのも縦の人間関係の特徴。

もちろん一人の人間の中に縦・横二つのタイプは混合するが、その人の基本的な性格は、縦の官僚型か、横のお友達、自由なアーティスト型かにわけられるんじゃないだろうか?

組織の中で優秀なのは縦の官僚型だろう。しかし、命令を忠実に遂行したり、マニュアル通りに遂行したり、分析するのはAIの得意分野でもある。そうすると、むしろ、これからの時代に重要になってくるのは横のお友達型に多い、柔軟で自由な発想と自立した判断力を持つ、成熟した個人じゃないだろうか?

明治時代の漱石は、旧リベラリストとして『私の個人主義』を書いた。リベラルが重視する「人格・個性の尊重」や「社交(人との協力)」「福祉」などではなく、日本で「個人主義」はただの排他的なエゴイズムになってしまうことを恐れたのだと思う。(絶筆となった「明暗」には、様々な種類のエゴイズムが出てくる)

父の介護をして、お金があってもなくても人はひとりじゃ生きていけないという事を痛感したばかり。

渋谷では、ホームレスの寝場所であった宮下公園は「ナイキ」の小奇麗なビルとなり、さらに再開発が進んでまたもやガラス張りの高層ビルがあちこちで建築中。今の渋谷はまさに市場原理主義の勝利といった感じ。交通の利便性が良くなったのに、逆に住みにくくなった渋谷。街から無駄なスペースがなくなったためか、居心地が悪くなった・・

そもそも都会というのは、ホームレスからヤクザ、年寄りまで受け入れる懐の深さを持つ空間じゃないだろうか?都会の情緒とはそうした懐の深さと多様性から出てくるものであり、渋谷はいつのまにか情緒のないブレードランナーのような街に。こんな情緒のない街で育ったら一体どんな子供が育つんだろう?バス停のベンチもわざと腰かけにくく作ってあり、生活する人の目線がまったく無視されている。昔の渋谷は、たとえ珈琲代しか持っていなくとも、散歩するだけでも十分に楽しめるような街だった・・渋谷に細々と残っていた人間的なコミュニティは根こそぎ破壊されてしまったのである。

街というものは、利便性や効率性、利潤の追求のために存在するのではないのである、ましては見栄えの良さのためではない。街も公共空間も人間のために存在するのだ。

「民主主義の砦」と言われている図書館。『ニューヨーク公共図書館』というドキュメンタリー映画では、図書館でしょっちゅう無料の講座や読書会が開かれ、子供の勉強を見たり、あるいは資格をとるための勉強会が開かれ、詩人の朗読会、作家の講演会、ジャズコンサート、そして就職の紹介まで、まさに市民に寄り添った憩いの場所になっている。お洒落なマダムの隣の席でホームレスが居眠りしてクラシックコンサートを聴いている姿も微笑ましい。運営するスタッフの教養の高さといい情熱といい、羨ましい限り。やはり、ニューヨークは多様性に寛大な大人の街。図書館という公共スペースがどんなものかによって、その街の文化レベルがわかる。

絶望的な状況にいる若者を、無料で閲覧できる一冊の本が救うことだってあるだろうし、一人暮らしの老人の孤立化も防げるだろう。ホームレス~学生~向学心の強い主婦から定年退職した叔父さんまで、図書館は多種多様な人たちと知り合える場所なのである。

そして何よりも一冊の本を読むということは、世界の広さと様々な人生があることを知る一番手っ取り早い手段。人間を知るとは、他人の痛みや苦しみを知るという事であり、「教養」とはそういうものだと思う。人のどうしようもなさがわかるのが、大人だろう。

パリにあるという「シェークスピア&カンパニー書店」は名だたる文学者を何人も育てた英文学専門の名門の古本屋。狭い店の中には本が天井までぎっしりと詰まり、居候する人も多く、宿泊もできるように簡易ベッドまであるとか。今の日本に欠けているのは、そうした居心地のいいオープンな場所、そして何よりも、人間らしい生活を楽しむことじゃないだろうか。

以前、通っていた山谷にはアメリカ人留学生とか若い学生ボランティアが多く、喜んでホームレスのサポートをしていた、ホームレスの叔父さんたちの持つ、エゴのない浮世離れしたゆるい空気が、若い子たちにとっても居心地良かったんじゃないかと思っている。

これからの時代は、民間による、草の根的なコミュニティと横の連携によって、街はもっと活性化していくのじゃないだろうか?

ガラス張りの高層ビルの林立にはもう、うんざり。そろそろ、人間らしい生活とは何か?をもっと真剣に考えてもいいのじゃないだろうか?成熟した個人は、人間のための、人間らしい生活から生まれてくると思うのである。

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