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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №75 [文芸美術の森]

          喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ
           美術ジャーナリスト  斎藤陽一
           第3回 歌麿の狂歌絵本

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≪江戸の狂歌ブーム≫

 歌麿が世に出た天明期の江戸には、狂歌が大流行していました。武士も町人も、男も女も、ちょっとした趣味人なら、狂歌をひねりました。

 狂歌は、和歌の形式(5・7・5・7・7)の形式をとりますが、社会風刺や世相を茶化す諧謔精神、滑稽味、遊び心などを特徴とする文芸です。
 よく知られている狂歌のひとつを紹介しておきます。

     世の中に か(蚊)ほどうるさきものはなし
           ぶんぶ(文武)といひて 夜も寝られず

 奢侈を禁止し、文武を勧めた老中・松平定信の「寛政の改革」を皮肉った狂歌です。

 江戸の狂歌好きの人たちは、仲間たちとしばしば狂歌会を開き、席題を出して歌を詠み合うということをやりました。
 蔦屋重三郎は、これに目をつけました。狂歌会に参加した人たちに呼びかけ、各人が詠んだ狂歌に絵を組み合わせた「狂歌絵本」の出版を勧誘したのです。出版費用は、掲載される狂歌の作者たちが負担するという仕組みです。
 絵師には喜多川歌麿が起用され、天明6年から寛政2年の5年間に、蔦屋のもとから、十数種の「狂歌絵本」が刊行されました。

 中でも、歌麿の驚くべき観察力と精緻な写実力をいかんなく発揮したのが、次の三部作です。

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 歌麿と言えば、今日では、もっぱら「美人画」を描いた浮世絵師というイメージで受け取られていますが、この「狂歌絵本」三部作に描かれた歌麿の絵は、それとは異なる自然界の事物を精緻に写し取ったものです。これらを見ると、歌麿の画家としての基本は、観察力と写実力にあることを気づかせてくれますので、三部作から一部を抜き出して紹介しておきたいと思います。

≪「画本 虫撰」(えほんむしえらみ)≫

 先ず、「画本 虫撰」(えほんむしえらみ)の1頁から。

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 もとになったのは、天明7年8月に隅田河畔で開かれた「狂歌会」で、「虫」にちなんで恋の心を詠みこむという席題でした。主催者は、当代きっての狂歌師・宿屋飯盛。
 その席上で詠まれた狂歌のうち30首が、狂歌絵本「画本 虫撰」に掲載されています。

 この頁(上図)には、左に二首の狂歌、右に歌麿が描いた「蝶と蜻蛉(とんぼ)、芥子(けし)の花」の絵が載せられています。
 歌麿の絵は、各頁に掲載された二首の狂歌に詠まれた虫たちと草花を組み合わせて、見事な写実力を示しています。

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 左上の「蜻蛉(とんぼ)」をクローズアップで見ると:

蜻蛉の姿かたちとその動きを的確に描いていることが分かります。私は昔「昆虫少年」だったので、一日中、蜻蛉や蝶を追いかけまわし、標本を作ったりしたことがありました。
 そういう目から見ると、この描写はまさに「トンボそのもの!」と思います。

 さらに、蜻蛉の翅(はね)には、白雲母の粉を散りばめた「雲母摺り」(きらずり)の技法を使っています。今、私たちが見るのは、歳月を経て白雲母の粉がだいぶ薄れてしまった状態ですが、当時摺りたての絵は、頁を繰ると、蜻蛉の透明な翅が、光線の加減できらきらと光っていたと想像されます。

 右の蝶の翅も然り。鱗粉のきらめきを表わすために、ここにも白雲母が使われています。
 蝶々やトンボがふわふわと漂いながら、草花にとまろうとしている様子も巧みにとらえている。色づかいもまた繊細で上品ですね。

 美人画の専門家と思われている歌麿がなぜ、かくも精緻で正確な虫や草花が描けたのか?
 少年時代に弟子入りした絵の師匠・鳥山石燕が書き残した文章によれば、その頃の歌麿少年は、トンボを捕まえたり、コオロギを手に取ったりしては、飽きずに眺めて遊んでいた、といいます。そんな中で、観察力が養われたのかも知れません。
 ともあれ、この抜群の観察力と写実力こそ、その後の歌麿の絵の基本にある、ということを、頭の隅に置いておきたいと思います。
 この回の最後に、歌麿の「狂歌絵本」三部作の中のほかの二つ、『潮干のつと』(潮干狩りの土産、すなわち貝のこと)から貝類の描写、および「百千鳥」(ももちどり)から鳩の描写をクローズアップで紹介しておきます。
        
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(次号に続く)

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