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論語 №136 [心の小径]

四三〇 陳亢(ちんこう)、伯魚(はくぎょ)に問いていわく、子も亦異聞あるか。対(こた)えていわく、未だし。かつて独り立てり。鯉(り)、趨(わし)りて庭を過ぐ。いわく、詩を学べるか。対えていわく、未だしと。詩を学ばざれば以て言うことなしと。鯉退きて詩を学べり。他日亦独り立てり。鯉趨りて庭を過ぐ。いわく、礼を学べるか。対えていわく、未だしと。礼を学ばざれば以て立つことなしと。鯉退きて礼を学べり。この二者を聞けり。陳亢退きて喜びていわく、一を問いて三を得たり。詩を聞き、礼を聞き、君子のその手を遠ざくるを聞けり。
 
      法学者  穂積重遠

 「陳亢」は門人子禽(しきん)(二〇)。「伯魚」は孔子の子、名は鯉(二六〇)。

 陳亢が伯魚に「あなたは外の門人と違って先生と御親子(ごしんし)の間柄ですから、何か特別の教訓を聞かれたことがあるでしょう。」とたずねたら、伯魚が答えて言うよう、「今までまだそういうことはありませんでした。ただいつか父がひとりで縁側に立っているとき、私が小走りして庭先を通り過ぎましたら、呼び止めて、『お前は詩を学んだか。』と言いました。『まだでござります。』と答えましたら、『詩を学ばなくては口がきけぬぞ。』と申しました。そこで私はさっそく詩の勉強を始めました。その後またある日のこと父がひとりでいるとき、私が小走りして庭先を通り過ぎましたら、『礼を学んだか』と言いました。『まだでござります。』と答えましたら、『礼を学ばなくては根本が立たぬぞ。』と申しました。そこで私はさっそく礼の勉強を始めました。特別に聞いたと申そうなら、まずそんなところです。」陳亢がその場をさがってから、喜んで言うよう、「一を問うて三を聞き得た。詩のたいせつさを聞き、礼のたいせつさを聞き、そして君子は自分の子でも特別待遇はせぬものだということを聞いた。」

 「異聞有るか」を、外の門人にそれぞれその人に応じた特別の教訓をされると同様にあなたにもまた特別の教訓をされるかの意味に解する人もある。なるほど「亦」とあるのでそうも取れるが、やはり「外の門人以上の特別教訓」と見る方が自然でおもしろい。また「遠ざく」を文字通りに解して、他の門人よりもわが子の方を冷遇するととり、それが人情にかなうとかかなわぬとかの諭もあるが、「きく」はすなわち「近づけず」で、特にひいきをせぬ、の意味に解する方がよかろう。そして冷遇ではないが、「学べりや」「学ばざれば立つことなし」とだけで突っ放して、こちらから「教えてやろう」と持ちかけぬところに、孔子流の教育法があることを注号べきだ。(参照~一九二・三〇七・四四〇・四四一)

四三一 邦君(ほうくん)の妻(さい)は君これを称して夫人という。夫人自ら称して小童(しょうどう)という。邦人これを称して君夫人という。これを異邦に称して寡小君(かしょうくん)という。異邦にひとこれを称して亦君夫人という。
                                        
 本章にも「子日」または「孔子日」が附いていないので、孔子様自身の言葉かどうか判然とはせぬが、おそらく何かの場合にかようなことで崇を正す意味で説明されたのを、門人が筆記しておいたのであろう。「夫人」の「夫」は「扶」で、内助の意味の由。「小童」は謙遜の言葉だが、わが国でも同じく「わらわ」という。「君夫人」は「主夫人」の意味。「寡」は「宜徳」で謙遜の言葉。君主は自身を「寡人」という。

 国君の妻は、国君はこれを「夫人」ととなえ、夫人は自身を「小童」という。国人はこれを「君夫人」と称し、外国に対しては「寡小君」と呼ぶ。外国人はこれを国人と同様「君夫人」ととなえる。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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