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現代の生老病死 №11 [心の小径]

現代の死

      立川市・光西寺  寿段順誠

(2)死をとりまく状況の変化-伝統社会→近代社会→ネオ近代社会

 そこで、以上のことを確認する意味で、イギリスのトニー・ウォルターの議論をさらに紹介しておきたいと思います。この人は「死の社会学」(sociology of death)では世界的な第一人者とも言える人ですが、彼は「伝統社会」から「近代社会」へ、そしてさらに「ネオ近代社会」への過程において死の扱い方がどのように変わってきたかを下のような表にして示しています(17)。「ネオ近代社会」というのは、近代化がさらに進んだ社会のことですが、今は「現代」と言っておきましょう。
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 先ず「身体的状況」についてですが、伝統社会では死は人の面前で頻繁に起こっていました。例えば、親鸞や蓮如のものを読んでいても「疫病」(疫病)とか「飢饉」とかということは、よく出てきますし、『方丈記』でもそうですね。伝統社会においては、死は否が応でも見ざるを得ないものだった訳です。それが近代社会になると、死というのは病院に隠されるようになりました。非日常に持って行かれたのです。そして、隠されて語られなくなった訳です。しかし、現代(ネオ近代)では老・病・死の過程が非常に引き延ばされて、もう死も隠しようがなくなってきたということがあるのではないでしょうか。
 次に「社会的状況」ですが、伝統社会では先ほど村社会に関して述べたように、人の死は共同体で扱っていました。ところが近代社会では、死は「私事」として病院に隠されているから、「公」の席ではそれについては語るなということになりました。死はプライベートな領域にだけ閉じ込められるようになった訳です。しかし現代(ネオ近代)では、むしろその「私事」だった筈のものが「公化」してきています。例えば、皆さんもご記憶にあると思いますけれど、近年、女優の川島なお美や市川海老蔵の妻でアナウンサーだった小林麻央が若くして癌で亡くなりましたが、彼女たちは死の直前まで自分の姿をブログにアップしていました。このように、やせ細っていく自分の姿を見せながら、最期まで私はこんなに頑張って癌と闘っていますという姿を公開するようになったのです。私がもはや現代では死はタブー視されておらず、ある意味では過剰に語られているというのは、このような現象を見てそう思っているのです。
 それから死を決する「権威」がどこにあるのかと言うと、かつて伝統社会では宗教が決していました。死に関しては宗教に一番権威があった訳です。が、近代社会では最高の権威は医療に移りました。お医者様が絶対になったのです。ところが、現代(ネオ近代)ではもはやお医者様も絶対ではありません。最終的に自己が一番の権威になったのです。自己決定がすべてなのです。例えば、最近エンディングノートが流行しましたね。そういうところで常に合言葉のように言われることは、「〈私らしい最期〉をどう迎えるか」ということです。ただ、私などは本当に個性的な葬儀をしたければ、思い切り伝統的な葬儀をやったらかえって個性的なものになるのではないかと思います。最近では皆、伝統を無視して「私らしい」ということばかり言うのですが、それでいて皆同じようなものになってしまっていると思いますね。でも、伝統的にやると言っても、もはや面倒臭くて誰も出来ないという気もしますけれどもね。が、とにかく、今の権威というのは自分であり、自己決定が最も重要だということになっていると思うのです。
 以上のように、このウォルターの表は非常に参考になると思います。

註(17) この表に関しては、Tony Walter,The Revival of Death,Routledge,1994,pp47-65参照.

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より



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