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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №74 [文芸美術の森]

                      喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ 
           美術ジャーナリスト  斎藤陽一
                            第2回 歌麿デビュー 

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≪吉原が舞台≫

 歌麿が「喜多川歌麿」の雅号を用い始めたのは天明期。当時、敏腕のプロデューサーである版元・蔦屋重三郎が歌麿の才能を見出し、歌麿と組んで、次々と個性的な浮世絵を刊行していきました。

 上の絵は、天明3年(1783年)、歌麿が、吉原遊郭で行われた「吉原俄」(よしわらにわか)を題材に描いた六枚の揃い物のひとつ。歌麿30歳頃の作品です。

 「吉原俄」というのは、毎年8月に郭内で行われた「俄狂言」のこと。略して「俄」(にわか)と呼ばれる「即興劇」で、遊郭内の人たちが様々な役柄に扮して廓内を練り歩くものでした。
 この絵では、「俄」に参加する「芸者」二人を描いています。芸者の名前は、絵の右上に記されており、「荻江: おいよ 竹次」と読めます。二人は「荻江節」の名取りの芸者でしょう。二人とも男髷に結っているので、男役を演じるのです。いかにも吉原遊郭でのパフォーマンスらしく、豪華な練衣装を身に着けています。

 当時、女が舞台で役者になったり、ましてや男役を演じたりすることは禁じられていましたので、吉原の廓内で行われるこの「俄狂言」は、大っぴらに芸事を披露できるチャンスでした。
 この絵では、演目のひとつ「大万度」(おおまんど)の衣装を着けて出番を待つ二人の芸者を描いています。

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   右側に立つ芸者おいよの衣装にご注目!
 華麗で精緻な衣装の描写は、目を見張るほどの美しさです。また、その顔立ちにも、いかにも歌麿ワールドの女性らしい特徴があり、この絵には、歌麿の独自性が現われています。

 ご参考までに付け加えておくと、吉原遊郭には、客をとる「遊女」とは別に、芸事で商売する「芸者」がおり、しかも「女芸者」だけではなく、「男芸者」もいました。

≪遊びのガイドブック『吉原細見』≫

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 絵の右下、床に置かれた冊子にも注目しましょう。
 これは、袋入りの冊子、いわゆる「吉原細見」(よしわらさいけん)です。
 冊子には『遊君名寄細見』(「吉原細見」)という題名、その横にある袋には「版元・つたや重三郎」という文字が読めます。

 「吉原細見」というのは、妓楼の名称と場所、抱えている遊女の名前(源氏名)と格付け、揚げ代などを詳細に記した「吉原・遊び方ガイドブック」です。
 当時、吉原遊郭で遊ぼうとする男たちのみならず、例えば、参勤交代で江戸にやってきた武士たちが帰国する時の土産にしたりして、たいへん人気があった冊子でした。

 もともと「吉原細見」は、いくつかの版元から出版されていたのですが、天明3年からは版元・蔦屋重三郎の独占出版となったのです。蔦屋重三郎は、商売上手で企画力のある版元であり、この絵の左隅に、自分のところの出版物の宣伝広告を入れたのです。

 「吉原細見」の一頁を下に紹介して、この回を終えたいと思います。
   ご覧の通り、この頁には、廓内の通りのひとつ、江戸町1丁目の通りに面した大見世「玉屋」と小見世「山城屋」が掲載されており、それぞれの見世が抱える遊女たちの名前と格付けなどが紹介されています。花魁の名前の上に記された記号により、その揚げ代(遊び代)も分かる仕組みになっています。

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 次回は、版元・蔦屋重三郎と喜多川歌麿が組んで刊行した「狂歌絵本」を紹介します。


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