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論語 №135 [心の小径]

四二七 孔子いわく、君子に九思あり。視(み)るには明を思い、聴くには聡を思い、色には温を思い、貌(かたち)には恭を思い、言(ことば)には忠を思い、事(こと)には敬を思い、疑(うたがい)には問を思い、忿(いかり)には難を思い、得(う)るを見ては義を思う。

       法学者  穂積重遠

 孔子の申すよう、「君子には九ヵ条の思慮すべき項目があります。視るについては、蔽(おお)わるることなく明らかに見たいと思います。聴くについては、誤ることなく耳さとく聴きたいと思います。顔つきはいつも温和でありたいと思います。容貌は上品に恭しくありたいと思います。言葉は忠実で行動と一致したものでありたいと思います。仕事は慎重で手違いのないようと思います。疑いが起ったらさっそく誰かに問おうと思います。腹が立ったらこの腹立ちまざれにやったらどんな後難をひきおこすかも知れぬぞと思います。利得がありそうだったら、これを取って道義にかなうだろうかと思います。」

四二八 孔子いわく、善を見ては及ばざるが如くし、不善を見てはlを探るが如くす。われその人を見る、われその語を聞けり。隠居して以てその志を求め、義を行いて以てその道を達す。われその語を聞けり、未だその人を見ざるなり。

 孔子の申すよう、「善事を見ては、あだかも逃げる者を追いかけて追いつき得ず見失いはせぬかをおそれるような気持になり、不善を見ては、あだかも熱湯の中に手を突っ込みびっくりして急いで手を引っ込ますような気拝になる、そういう言葉を聞いたこともありますし、現にそういう人物を見ております。道が行われぬ時には野に隠れながらしかも世と絶たずしてその志を他日に行わんことを期しつつ徳を修め、国に道あれば表面に立ち正義を行って経国済民の志を成就する、そういう言葉を聞いてはいますが、そういう大人物はまだ見たことがありません。」

四二九 斉(せい9の景公、馬千駟(し)有り。死するの日、民徳として称するなし。伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は首陽(しゅよう)の下に饑(う)ゆ。民今に到るまでこれを称す。(孔子いわく、誠に富を以てせず、亦祇(ただ)に異を以てす、とは、)それこれの謂(いい)か。

 この本文については問題が二点ある。第一に、原文には前記カツコ内の文句がないのだが、それでは「それこれこれの滑か」と言ってみても、何の「謂」かわからない。そこで学者が詮索の結果、顔淵第十二「子張問崇徳弁惑」章(二八八)の末段の詩の二句が元来ここにはいるべきのを、編者が過って前に出したのだ、という考えになった。なるほどそうらしいから、カッコに入れて本文を補った。第二に、本文には「子曰」も「孔子日」もない。これは外にも二三の例があるが、編者が落したのだろう。それならどこに入れるかについて最初という説と、例の詩句の上という説とある。どちらでもよさそうだが、仮に後説に従って、右カツコ内の最初に「孔子日」を補っておいた。

 斉の景公は馬四千匹をもっていたというほどの富貴を極めたが、その死後人民が誰一人とくありとしてほめる者がなかった。伯夷・叔斉は首陽山のほとりで餓死するという悲惨な最期を遂げたが、人民は今日までもその徳をたたえる。孔子がこの事実を指摘して申すよう、「詩に『人がはめるは富ならで、人に異なる徳のため』とあるのは、ここの所でござる。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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