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現代の生老病死 №10 [心の小径]

 4.現代の死

       立川市・光西寺  寿台順誠

(1)「死のタブー」再考

 それでは次に「現代の死」という問題に移ります。
 この間題について最初に言っておきたいことは、デス・エデュケーション(死の準備教育)等で死を問題にする場合、長らく近代社会では、特に日本では死をタブー視してきた、そしてそれはよくないという前提から話を始めるのが常道でした。
 自分の身内のことで恐縮ですが、私の父親(正雲寺の前住職)は34年前(1986年)に癌で亡くなりました。58歳でした。が、当時はまだ告知もままならない時代で、完全にタブーだったと思います。「あなたは癌です」とは言えませんでした。死についてオープンに語ることは、日本では欧米に遅れる形で1990年代以降、芸能人等がカミングアウト(公表)するようになったというようなこともあり、だんだんオープンになってきたと記憶しています。と同時に、「インフォームド・コンセント」(informed consent=医療者からの十分な説明を受け、それを理解した上での患者の同意)というような言葉も知られるようになってきました。そして、今ではもう告知するのが前提になっていますね。告知して複数ある治療の選択肢から、患者本人に選んでもらわないと困るということになってきました。
 ところが、死について語る場合には、今でも「死はタブー視されている」ということを枕詞にして、ただそれを確認するだけでそこからなかなか話が進まないことが多いのですが、そろそろもう一歩先に展開しないといけないのではないかと最近私は思っています。ある意味では、現代ではもう死は過剰に語られているのではないか、とさえ思うことがあります。そこでこのような問題について、いくつかの見解を紹介しておきますと(16)、まず現在ではもはや死がタブーであった時代は終わりつつあると主張する論者がいます。これまでになされた死について自覚的に考える運動や研究によって、既に死のタブー視は過去のものになりつつあるという訳です。
 又、ある人は死をタブー視しているのは社会の一部だけだという主張をしています。私のような僧侶にはこれについて思い当たることがあります。坊さんの格好をして入っていくと嫌がられるところが私は二つあると思っていて、一つは結婚式で、もう一つは病院です。前者では「永遠の愛を誓う場所に無常を思わせる者など入ってくるな」と思われるでしょうし、後者では「あなたの出番はもう少し後だ」と言われそうですよね。だから、ある部分社会でだけ死がタブー視されているというのは、よく分かることですね。そのように病院では嫌がられますけれども、うちの光西寺には近所の老人ホームの墓があるのでホームにはよく出入りするのですが、坊さんの格好で歩いても全然嫌がられることはありません。病院とホームは隣接性があると思うのですが、不思議なものですよね。
 或いは又、死は現代では、タブー視されていると言うよりも、断片化されていると言う方がよいと主張する人もいます。現代では死というのは殆んど医学的・生物学的な面でしか見ないという問題があるということです。でも、死ということには、法的な側面もあれば、宗教的な側面もありますよね。例えば何らかの事情があって直葬(通夜も葬儀もせずに火葬だけして)で済ませた人で、時々、いつまで経っても物事(死を確認する作業)が終わらなくて、それでけじめがつかなくて困ってしまう人もいるということを聞いたことがあります。これなどは、死というものを医学的な側面だけで考えて、後は不合理だと考えることから起こることです。しかし死には宗教的な側面もあって、その意味での確認の手続き(儀礼)が必要なのだということを軽く見ているということなのでしょうね。とにかくそのように死には、医学的・生物学的な面だけでなく、法的な面も宗教的な面もある総合的且つ厳粛な事態として確認する必要があると思うのです。それをバラバラにしてしまっているのが断片化ということだと思います。
 もう一つだけ挙げておきますと、現代では死が、タブー視されているというよりは、個人化されていることが問題だということを言う人もいます。例えば、かつて村社会ではその構成員の死というのはパブリックな事柄でした。古い映画のワンシーンなどで、その村の誰かが死ぬと皆で葬列を組んで村外れまで送っていくというような場面はありそうなことですが、村社会で誰かが死ぬということは、村の共通の財産がなくなることだったのです。一人の古老が亡くなることは図書館が一つ無くなることに等しい、という言い方も聞いたことがありますね。古老とは智恵の宝庫だった訳です。が、先ほど言ったように、現代の超高齢社会では高齢者はもはや希少価値ではなくなってしまいました。それで、今では葬儀はほとんど「家族葬」になっていますが、これはかつて「密葬」と言っていたものですね。が、実は「家族葬」も「密葬」も英訳するとどちらも同じで、“Private funeral”と英訳出来ます。つまり、現代では死はプライベートな領域に閉じ込められてきたのです。ですから、タブー視しているというよりは、個人化しているという方が正確ではないかという訳です。
註(16) 以下では、Tony Walter,Modern Death:Taboo or not Taboo?,Sociology25(2),1991に挙げられた諸見解を簡単に紹介しながら話を進めているということを注記しておきたい.

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より



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