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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №73 [文芸美術の森]

                     喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ
            美術ジャーナリスト  斎藤陽一
                        第1回 はじめに~歌麿登場~

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≪「女絵」の絵師・歌麿≫

 私の“日本美術へのオマージュ”とも言うべき「日本美術は面白い!」シリーズでは、第35回から「浮世絵の魅力」というテーマで、まず葛飾北斎(1760~1849)、次いで歌川広重(1797~1858)の作品について語ってきましたが、今回からは、喜多川歌麿(1753?~1860)の作品を取り上げて鑑賞していきます。
 歌麿についても、わが国には優れた研究者がたくさんおられます。そのような先達の研究成果を踏まえながら、「歌麿ワールド」を楽しんでいきたいと思います。

 生まれた順でいうと、歌麿は、北斎より7年ほど早く、広重より44年ほど早く生まれているのです。歌麿が活躍した時期は、江戸時代後期の天明・寛政期。この時期は「浮世絵の黄金時代」とも言われ、多くの浮世絵師が登場して、腕を競い合いました。
その中で、歌麿の作品のほとんどは、「女絵」(美人風俗画)であり、とりわけ寛政年間に「女絵」の分野において、大輪の花々を咲かせました。
 また、それまでの美人画は全身像が多かったのに対して、歌麿は、描く女性の胸から上のサイズ(バストショット)をクローズアップして描く「大首絵」(おおくびえ)を創始し、評判を高めました。

 歌麿が描く女性像は、華麗な中にも独特の気品と憂愁を帯びているところに特徴があります。
 これからしばらくは、歌麿のそのような「美人画」を鑑賞していきたいと思います。

≪謎めいた歌麿の生い立ち≫

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 この絵は「面伏せ自画像」、あるいは「居眠りをする自画像」などと呼ばれる、歌麿の自画像とされるものです。
 これでは歌麿がどんな顔つきをしていたか、分かりませんね。
 歌麿の顔つきがうかがい知れないように、歌麿の生い立ちについても、正確なことはほとんど分からないのです。

 亡くなった年については、歌麿が葬られた浅草の専光寺(関東大震災後は世田谷区烏山に移転)の記録に「文化3年(1806年)9月20日、53歳で死去」と記されているので、これを信じるとすれば、歌麿が生まれた年は宝暦3年(1753年)頃と推定されます。

 また、生まれたところについては、江戸説、京都説、川越説など諸説があり、これまた、確実な資料はありません。まさに「面伏せ」の歌麿なのです。

 しかし、少年時代、江戸の狩野派の町絵師・鳥山石燕に入門し、絵の修業をしていたことが分かっています。やがて彼は、「北川豊章」と名乗って浮世絵師の道を歩むことになりますが、初期の作品は、あまり残されていません。

≪歌麿は醜男?美男?≫

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 先に、歌麿がどんな顔つきをしていたのか、分からないと申し上げましたが、上の絵は、歌麿の後輩にあたる鳥文斎栄之が文化12年(1815年)に描いたとされる「歌麿肖像」です。だとすれば、歌麿は文化3年(1806年)に亡くなっているので、その死後9年経って、栄之が記憶によって描いたものでしょう。
 あれほどたくさんの美人画を生み出した歌麿自身は、言い伝えでは、決して美男子ではなく、むしろ醜男だったと言われています。
伝・鳥文斎栄之の「歌麿肖像」を見て、このような顔つきをどのように受け取ればいいのか、皆さんそれぞれにお任せします。私は、なかなか迫力のある容貌だと思うのですが。

 次回は、版元・蔦屋重三郎と組んで、歌麿が世間に注目されるようになった時の作品を紹介します。


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