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浜田山通信 №296 [雑木林の四季]

利他論の決定版

         ジャーナリスト  野村勝美

 皆がコロナで閉じ込められているさなか、中島岳志さんの『思いがけず利他』が発行された。利他という言葉にはっきりいってちょっと意表をつかれた。利己的とか自己主張、自己責任論はいやというほど聞かされてきてそれが当たり前のように思わされてきたのだが、従来から柔軟な考え方を発表してきた中島さんはやんわりと「利他」論を提示した。しかも「誰かのためになる瞬間は、いつも偶然に未来からやってくる」というのだ。
 自ら他人のためになろうとして何かをやっても相手はありがた迷惑に思うかも知れない。実際には「利己」かもしれない。その意味で「利他」はオートマチカルなもの、向うからやってくるもの、、受け手によって起動するものということになる。ある意味「他力本願」である。だからといってすべてを仏さまや神さまにおまかせすればよいということではない。大切なことは、自分でがんばれるだけがんばること、自力の限界を尽くすこと。すると自分の能力の限界にぶつかり、どうしていいかわからなくなる。自分の絶対的な無力に出会うことになる。
 しかしここで、私たちは、有限なる人間にはどうすることもできない次元を認識する。その瞬間、「他力}が働いてくる。そしてアッと驚くことになる。それは偶然に起こる。重要なことは、私たちがその偶然を呼び込む器になること。この偶然にやってくるものこそ「利他」というわけだ。
 この「利他」はいずれ誰かの手にとられ、その受け手が潜在的な力を引き出したとき、利他は姿を現わし、動き始める。自然と動き出す。だからと中嶋さんは言う。「このような世界観の中に生きることが『利他』なのです。だから利他的であろうとして特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。能力の過信を諫め、自己を越えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。」
 今の世の中、意思や利害計算や合理性のみで動いている。自己責任論が蔓延し、人間を生産性によって価値づける空気の中で社会は動いている。しかしこんな人間社会は決定的に間違っている。意思や利害計算や合理性の「そと」で私たちを動かし、喜びを循環させ、人と人とをつなぐものは必ずある。
 それこそ利他という考え方であり、その実践である。他人様のため動くこと、なかなかできないことだ。しかしいま利他の世界では多くの人が、身体の不自由な人や知恵遅れの子どもたちのために働いている。意思や利害計算や合理性の「そと」で彼らは動いている。意思や利害計算や合理性だけで動いているわけではない。私たちを動かし、喜びを循環させ、人と人をつなぐものは「利他」という考え以外にない。近くの本屋で平積みされていた。


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