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医史跡を巡る旅 №102 [雑木林の四季]

番外編~寅・虎・トラ

       保健衛生監視員  小川 優

今年の干支は寅です。
寅、虎は意外なことに疫病との関りが少なからずあり、様々な形で登場します。今回は虎の玩具や御守をご覧に入れながら、虎と、虎に縁のある方々、そして病との繫がりをご紹介しましょう。

さて、ここしばらく江戸のコレラの流行について書いてきました。
幕末、明治にかけてはコレラについて「虎狼狸」、「虎狼痢」、あるいは「虎列刺」、「虎烈刺」、「虎列拉」と字を当てました。「虎」の字が入っていることに気付きます。

コレラの原因がわずか5ミクロン、0.005ミリに満たない微生物であると確定したのは、1884年です。コレラ菌自体は、すでに1854年にイタリア人医師のパチーニによって発見されていましたが、コレラという病気の病原体として確定したのは、ドイツの細菌学者コッホによって30年後になります。時に日本は明治18年、明治から暫くたったころです。
それまでは、この恐ろしい病気を引き起こしているものが何かがわからないままで、恐れながら人々は想像します。きっと「目に見えないなにか」が、コレラの症状を引き起こしているのに違いないと。瘴気か、悪鬼か、はたまた妖怪か。「目に見えないもの」という、その見立て自体は間違っていませんでしたが、実際は「肉眼」では見えないだけで、確かにそこに存在するものでした。

当時の人々が考えた原因の一つが、普段は目に見えない獣です。日本においては、野生の獣と神々、そして物の怪の間にはっきりとした線引きはなく、曖昧で、人の願いをかなえるものが神、人に仇なすものを物の怪と呼んでいるだけでした。狼しかり、狐しかり、狸もしかり。その中には、多くの人が実際に見たことはないものの、干支として、あるいは伝わる話でよく知られる「虎」という生き物がいました。

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「錦絵 虎列刺退治」 ~東京都水道歴史館展示

江戸の人々にとって、毛皮や絵画としての虎は身近だったものの、生きている本物の虎を見ることはまずなかったでしょう。恐ろしい生き物であるという話が独り歩きし、コレラの激烈な症状から、それを引き起こす原因は、きっと恐ろしい形をしているものという思い込みとがオーバーラップして、虎の字を当てるようになったと考えられます。
そして「虎狼狸」、「虎狼痢」、あるいは「虎列刺」、「虎烈刺」、「虎列拉」として、「虎」の字が充てられるようになります。冒頭の虎狼狸などは、虎、狼、狸と三獣合体して、もはや恐ろしいのか、滑稽なのか、よくわからない状況になっています。

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「少彦名神社 福虎」 ~筆者蔵

狼と狸は人にとって、江戸時代には実際に害になることがありましたから、まぁ「あり」としますが、全くの濡れ衣が虎です。それどころか虎によって引き起こされる災いは、虎をもって制する、とばかりに虎の頭骸骨を配合した丸薬がコレラの特効薬とされてしまいます。その名も「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさつきうおうえん)。いかにも強そうな名前です。

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「少彦名神社 神虎笹」 ~筆者蔵

大阪道修町の少彦名神社では幕末のコレラ流行時にこの丸薬と張子の虎を町民に配り、大変な人気を博しました。流石に今では丸薬頒布はしていませんが、その名残として張子の虎を結んだ五葉笹を、無病息災の御守りとし神農祭で売られています。初めは虎にとって迷惑なだけでしたが、現在では神虎、福虎として崇められているので、まぁ許してもらえるでしょうか。

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「姫路張子、出雲張子 虎」 ~筆者蔵

張子の虎は子供の健やかな成長を祈って、端午の節句にも飾られます。虎は強い霊力をもち、邪気を払い、子どもの健康に加勢すると考えられたためです。また張子の頭は常に辺りを睥睨し、見えない魔を打ち払います。

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「加藤清正 博多人形、出雲今市人形」~筆者蔵

虎退治、といえば加藤清正です。戦国時代の豪傑で、様々な武勇伝が伝わっている中でも、ひときわ有名なものが、この虎退治でしょう。
先程の「虎頭殺鬼雄黄圓」も、まるきりのイメージ先行というわけではなく、かつてはこの虎、漢方の原料として珍重されました。なかでも虎骨、そのままですが虎の骨は、滋養強壮、痺れや痛み止め、熱病、腫物とおよそ万能薬的な取扱いがなされました。二十世紀の野生虎の急激な減少は、この漢方原料としての乱獲が原因の一つとされる程です。
話が逸れましたが、加藤清正の虎退治も、豊臣秀吉が虎肉を不老長寿の妙薬として欲したからとする説があります。清正自身が狩ったかどうかは別として、朝鮮遠征軍による虎狩りについては、まるきり荒唐無稽な作り話ではないようです。

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「加藤清正 手形掛軸」~筆者蔵
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「加藤清正 手形部分のアップ」~筆者蔵

虎に勝つ清正公ならば、虎狼狸にも勝てるだろうと考えられたのも道理、幕末のコレラ流行に、まじないのシンボルとして引っ張り出されました。疫病がその家に入らないようにと、清正公の手形を刷ったものを門口に貼り出すことが流行ります。また、その姿や手形を掛け軸にし、疫病除けとして飾りました。

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「浄池院殿」~筆者蔵

浄池院殿永運日乗大居士は加藤清正の戒名です。清正公は熱心な日蓮宗の信徒であり、その姿とともに法華経が書かれることも多いです。また清正の死因については諸説あり、毒殺のほか、ハンセン病であったとするものもあります。そのためハンセン病患者の守護神と見なされ、墓所のある本妙寺には、幕末から明治にかけてハンセン病患者が詰めかけたと言われます。ただ、清正公の症状、とくに急な発症、そして死に至るまでが短いことから、何十年もかけて病状が進行するハンセン病には当てはまりません。

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「加藤神社 御札・御守」 ~筆者蔵

加藤神社は清正公を祀った神社で、熊本城内にあります。明治の神仏分離の際に神格化し、旧熊本城内に勧進されたことを始まりとしています。熊本城址に鎮台(のちの陸軍第6師団司令部)が設置されるのにあたり、遷座しましたが、明治10年の西南戦争で焼失、後に再建されました。

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「加藤神社 御守」 ~筆者蔵

清正公が築城の名人で、領内の河川や道路の改修も多く手掛けたことから土木・建築、そして交通の安全、武人としての活躍から必勝祈願、そして病気平癒など、市民に広く崇められています。清正公に狩られた虎も、御守にその姿が描かれています。

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「鞍馬寺 福虎」 ~筆者蔵

虎にはまた、毘沙門天のお使いという役割もあります。毘沙門天は仏教を守護する四天王の一人で、四天王の中でも最強とされます。また多聞天とも呼ばれるとおり、人の願いをよく聞き、移動の速さもずば抜けているそうです。そんな活動的な神様に仕えるのに、「千里行って千里帰る」といわれる虎はうってつけです。
京都の鞍馬寺のご本尊は毘沙門天。本殿前には、神社の狛犬ならぬ阿吽の狛虎?が鎮座しています。それを模ったのがこちらの福虎。ユーモラスな表情にほっこりさせられますが、虎は虎、しっかり厄を祓い、福を呼び込んでくれることでしょう。

古来寅は縁起の良い動物とされるとともに、人々はその雄々しさに憧れ、猛々しさに恐れを抱きました。そんな寅の力で、今年こそ、このコロナ禍を吹き飛ばしてもらえることを祈ります。


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