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海の見る夢 №22 [雑木林の四季]

       海の見る夢
          -ショパン前奏曲第7番-
                    澁澤京子

 私と同世代ぐらいの方だったらよくご存じだと思う、昔、「太田胃散。いい薬です。」のCMに流れていたショパンのピアノ。この曲を聴くと、何だかノスタルジックな気分になるのである。子供の頃住んでいた、大森山王界隈の住宅街の風景。私が子供の頃はピアノブームだったのか、その頃、住宅街を歩くと、どこかの家で子供がピアノを練習している音がよく聴こえてきた・・雨の日、黄色い長靴を履いて学校に行ったこととか、近所の家の玄関の横の、雨に濡れたヤツデの葉の暗さとか・・

静かな小さな町にひっそりと暮したいな、と時々思う。『青い鳥』の、死んだお爺さんとお婆さんが暮している「思い出の国」のような、のどかな町が私の頭の中にある。

私の頭の中の「静かな小さな町」。町のメインの商店街は、ちょうど旧軽井沢の銀座通りくらいの規模で、なだらかな傾斜になっている。歩くと、角の商店街のベーカリーから焼きたてのパンのいい匂いがして、ジャムを売る店があり、骨董屋があり、一休みするとおいしい珈琲を出してくれる店もある・・町はずれの小さな劇場の近くには夜遅くまで営業するバーがあり、夜になると街灯がポツンと灯っているような、そんな空想の中の静かな町。

「懐かしさ」というのは実に不思議な感情なのである。それは子供の頃の記憶だけではなく、もっと深いところにあるもののような気がしてならない。

気に入っていて、何度も観ているのがジム・ジャームッシュの『パターソン』(アマゾンで無料で視聴できます)心が疲れている時にこの映画を見ると癒される。ジム・ジャームッシュは『ダウン・バイ・ロー』を見て以来好きな、センスのいい映画監督。

詩を書いているバスの運転手(アダム・ドライヴァー)と、アーティスト志望の奥さん(ゴルシフテ・ファラハニ)カップルの、ごく普通の日常生活を淡々と描いたもの。私はこの映画で二人のファンになったほどで、特にアダム・ドライヴァーの、いかにも詩を書きそうな、内向的で無口、繊細な感じがとてもいい。奥さん役のイラン人の女優さんも上品で可愛らしい。奥さんの珍奇な発明料理を、主人公が水と一緒に呑みこんで、無理に微笑んでいる表情も愛らしいし、二人が住んでいるパターソンの、坂の途中の小さな家も、飼っているブルドッグも可愛い。こんな町に住んでみたい・・

この映画は、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの「パターソン」という詩集にインスパイアされて作られたもので、ニュージャージー州パターソンはこの詩人が生まれ育った町なのだそうだ。

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩は、あまり日本で翻訳されていなくて、私がこの詩人を知ったのはテリー・イーグルトンの『詩をどう読むか』だった。

冷蔵庫に
入っていた
すもも
たぶん君が

朝食のために
とっておいたのを
失敬した

ごめん
うまかった
実に甘くて
冷たくて

イーグルトンはこの詩をマルクス主義の批評家らしく、冷蔵庫のメモのように実用的な「使用価値」と非実用的な「詩的価値」が不可分になっている詩として紹介していて(かなり辛辣、批判的にではあるが)、こういう日常の切り取り方は俳句に似ているような気もするし、なんといっても、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩は、日記のように誰にでも「詩を書いてみよう」という気にさせるシンプルなところがいいと思う。(映画の中で、主人公のバスの運転手が書く詩がとてもいい)

映画の最後のほうに、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズのファンの日本人旅行者(永瀬正敏)が出て来きて、主人公に「翻訳された詩を読むのは、レインコートを着たままシャワーを浴びるようなものだ」と話しかけるところがある。それは、「文化というものは輸入も輸出もできないものだ」という、ロシアから亡命した映画監督タルコフスキーの言葉にも通じる。詩というのはその国の言語の持つ音楽性抜きでは、本当の良さが伝わらないからだろう。

そして、壁というのは文化や言葉の違いのみならず、おそらく同じ国、同じ言語であっても、個人間にも存在する・・

ジム・ジャームッシュはデビュー作のチャーリー・パーカーを連想させる『パーマネント・バケーション』から、孤独、個人と個人との間にある溝や会話のズレみたいなものを追及していて、『パターソン』の主人公夫婦の間にももちろん、微妙なズレと小さな不協和音はある。しかし、主人公の書く詩を誰よりも評価しているのは彼の妻であり(たとえ他の誰からも評価されなくとも)、「詩」というものが二人の間の大切な絆になっているのは、愛というものが日常と不可分になっている非日常的な「詩」の領域のものだからだ。

詩にも愛にも、退屈な日常を新鮮なものに異化する力がある。それは、対象の持つ普遍性ではなく、むしろその個別性の持つかけがえのなさと親しさ、自分だけに見える素晴らしさを発見させる力を持つ。この映画が淡々とした日常を描きながら、何度観ても飽きないのは、バスの運転手である主人公の書く詩によって、現実がその都度フレッシュに生まれ変わるからだ。

自分だけに見える素晴らしさ、かけがえのなさが、「懐かしい」という感情に近いのは、「懐かしさ」というものが、人が何かを好きになる感情の根本にあるからかもしれない。

子供の頃、大晦日の汽笛の音を聞いて何か思い出せそうで思い出せないような、デジャブに似た不思議な経験をしたことがあった。古い映画『ノートルダムの背むし男』の中の教会の鐘の音を聞いた途端、やはり同じように、記憶が今にも蘇りそうで、どうしても思い出せないという歯がゆい経験もした。大人になったらそういう強烈な体験はなくなったけど、あれは一体なんだったんだろう?

個人的な記憶に限らず、子供が雲や海、空や樹木を何よりも好きなのも、やはりどこかで「懐かしさ」を感じるからなのだろうか?

世界というのは、いまだ神秘に満ち溢れていて、なんて素晴らしいのだろう!
  

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