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梟翁夜話 №102 [雑木林の四季]

「割れ鍋に綴じ蓋」

      翻訳家  島村泰治

半年ほど前に手を染めて、その面白さにいま凝ってゐるものがある。noteと云ふSNSがそれだ。そのサイトでいま、たまたま賞を構えて作品を募集する企画が進行中で、止せばいいのに応募を思い立ち、いま一編を筆耕中だ。

ネット上には様々な企画が群がってをるが、ジャンルを問わず何でもやりたい放題、書きたい放題、望めば値段をつけて売り出すこともできると云ふこのnoteは、もの書き好きには格好の遊び場。筆者など書きものや翻訳で余生を送ってをる身には將にそれで、「言の葉譚」と名付けた連続ものを綴ってゐる。

百歳生きるつもりを捻って同数を書き連ねる趣向のこの「言の葉譚」、すでに十本余の雑文が書き溜まってゐる。それぞれ三、四千字の仕立てで、日頃操る日本語と英語の絡みをあれこれ書き立てるのが存外に面白く、演題を替えて書き重ねるうちに、凝り性とは厄介なもので、例の企画に応募する気になったと云ふ、言わば要らぬ荷を背負ふことになった次第。

それはそれとして、言の葉をめぐる一編を綴り始めて改めて気付き、是非ご笑読いただかうと思ひ立った一件がある。他ならぬ、日本語の劣化がそれだ。いや、これを思ふたびに筆者は要らぬ胸騒ぎを覚えるのだ。

昨今の日本語がしゃかりきだとは、殊更に新味な意見ではないのだが、ここに来てそれが矢鱈に目立つことに、ここは一言あるべしと思ふのだ。視覚的な理由以外に意味不詳を承知で、否、敢えて重々しい意味付けを意図してカタカナ化する傾向が顕著なのだ。カタカナは片仮名が座りがいい、とさえ思ふ筆者には看過できない傾向だ。

それは片仮名の魅力は確かにある。グリコやキャラメルなど固有名詞化した奴はさておき、感傷的よりセンティメンタルがいいと思ふ輩も許せる。自己同一性では怯(ひる)むからとアイデンティティーと逃げる辺りも、まあよからう。(このアイデンティティーは筆者なら「素性」と訳す。格好な日本語だ)しかし、多様性と言ひながらダイヴァーシティーとルビを振るなどは言語道断、勘弁して欲しい。

百歩譲って、大概の片仮名に目を瞑(つむ)ろうとしやうとも、ここに流石に見て見ぬ振りはできぬ事態が出来(しゅったい)してゐる。カタカナにすることも厭(いと)ひ、原語を生のまま押し付ける怪しからん風潮、曰く、SDGsやAYA世代などの略語がそれだ。それぞれ原語は sustainable development goalsと adolescent and young adults だ。持続的開発の目標、思春期の若き大人たち、ほどの意味だ。どちらも首を傾げれば、引き締まった訳語が思ひつくだらうに、それをせぬ怠慢も原語を押し付ける強引さも、いとも厭わぬ輩の貧しい言語感覚をも、筆者は只管(ひたすら)憤るのだ。

原語を生のままで取り込むとは、日本語に相当の語彙がないことを指摘する愚に等しい。これが怠慢、強引を超えて不遜な罪禍でなくて何だらうか。日本語は稀に見る表現力の豊かな言葉だ。翻訳が生業の筆者が絶えず触れてゐる英語も含めて、日本語にはその融通無碍さから、如何なる外つ国の言葉にも対応できぬ語彙などはない。前例の前者などは、絶え間ない開発を目指すための目標との原意を踏まえて、言葉の知者が智慧を寄せれば必ず然るべき語彙が見つかる。後者など、文脈次第で色気付いた半大人たちとすら言えやう。それほど日本語の表現力は底知れない。

日本語は英語如きに躙(にじ)り寄ってはならぬ。愛嬌で片仮名を振るのはよかれ、コミットメントなどを鵜呑みしたり、コミットするなど動詞化して日本語の語彙に取り込むなどの振る舞ひは許せぬ。よし、この悪しき仕来りが根付き、日本語に片仮名が横溢、生の原語が横手を振って罷り通ることになれば、末は日本人が栄えある大和言葉を見失ふことになりかねぬ。これこそ將に悪しき割れ鍋に綴じ蓋、起こってはならぬ事態だ。

note への寄稿は、その辺りの経緯を解しつつ、いま鋭意筆耕の最中(さなか)、テーマにむかついて筆の滑ること滑ること。秋の夜長に格好の書きもの、と筆者はいま至極満悦である。



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