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道つづく №26 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

逃げ水(3)
         鈴木闊郎  

 わたしがまだ小学校に入学する以前、四、五歳のころであったろうか、決して忘れられない仲間内の兄貴分がいた。通称「長ちゃん」こと、鈴木長治氏である。われわれのリーダーであり、教師であった。
 「長ちゃん」は、良しにつけ悪しきにつけ学校では決して教えてくれない類のいろいろなことを伝授してくれたものである。「長ちゃん」は当時小学校の六年生ぐらいであったのだろうか。「長ちゃん学校 の生徒は、女子を含めて十四、五名。
 「長ちゃん学校」の生徒たちにとって、「長ちゃん」の教えは絶対であり、それに逆らうものはだれひとりとしていなかったものである。それほど「長ちゃん」は子どもたちに信頼され、尊敬されていた存在だったのである。
 「長ちゃん」は、身体も大きく温和な性格で、いつも穏やかな表情をしていた。キリリとした男らしい風貌で、女の子のなかには密かに憧れを抱いていた子もあったそうな。
 「長ちゃん」の考え方は、子どもたちを、年齢と能力に応じて区別したことである。腕力の強い子、弱い子、度胸のある子、ない子。運動神経の優れた子、そうでない子。その子の能力に合わせてグループ分けをした。つまりハンディキャップをつけるのである。
 例えば、多摩川の浅瀬でハヤのあんま釣りを教えるとき、その子の年齢や能力によって流れの急な場所、緩やかなところの区別を的確に判定した。泳ぐ場所についてもそうである。川の深浅や流れの緩急など、その日の状態を把握して決定した。そして「長ちゃん」は決して監視を怠らなかった。多摩川でよく泳いだところは、jR中央線の鉄橋の下、それもいちばん日野よりの土手に近い場所で、鉄橋の真下近辺は、俗に「深んど」とよばれ、4,5メートルの深さがあり、しかも底まで潜ると北に向かって大きな挟れがあり、子どもたちにとっては危険地帯であった。何人かの犠牲者がでたと聞いた。
 「長ちゃん」は幼い子どもたちが「深んど」で泳ぐことを絶対に許可しなかった。
 「長ちゃん」は、子どもの喧嘩には口を出さなかった。留めることもしなかった。どんな些細な理由であっても喧嘩には男の一分があるからだ。ただし喧嘩の勝ち負けには、はっきりとした規律があった。素手であること。蹴ったり、噛みついたりしない。取っ組み合いか、殴りあうだけ。そして、どちらかが泣き出すが、血を流したほうが負け。喧嘩は則終了とする。これが「長ちゃん学校」の喧嘩憲法であった。この憲法は、以後われわれの不文律となった。
 「長ちゃん」は、「ハケ」と「ママ」の地形の違い、山中の貝殻坂にあった貝の化石は、大昔このあたりは海であった名残りであることなどを、さりげなく教えてくれた。坂の途中に、なぜ貝の化石があるのかというわたしの疑問は氷解した。現今、この年齢でこれだけの判断力と統率力を持ち、リーダーシップを発揮できる「兄貴」は存在し得るであろうか。
 わたしは「長ちゃん学校」の生徒のひとりとしていかに恩恵をこうむったか計りしれない。いまの世にかくのごとき組織を結成させるのは無理であろうが、かってはこのような小グループがそれぞれの地域に存在し、少年たちは自然と世のあるべき仕組みや節度、そして常識を学んだのである。
 「長ちゃん学校」は、よき兄貴であった「長ちゃん」の人柄と指導のもとに、存在したのである。
 「長ちゃん」こと鈴木長治氏はいまも柴崎町一丁目にご健在で、獅子舞の唄方として、また陸上競技の指導者として活躍している。
  
   平成二十二年(二〇一〇)春
      「theSOUND of ○ldies in TACHIKAWA yamas times vol.3」より


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