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多摩のむかし道と伝説の旅 №74 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

               多摩のむかし道と伝説の旅 
                            -小江戸川越の旧跡を巡る-4
                    原田環爾

 氷川神社前の道路を東へほんの100mも進めば新河岸川があるので立ち寄る。すぐに宮下橋の袂にくる。宮下の宮とはもちろん氷川神社を指すのだろう。橋から見る新河岸川の川幅は約10m程度で護岸は綺麗に整備されている。新河岸川は荒川の西岸を蛇行しつつもほぼ平行して流れる川で、江戸初期から昭和の初め頃まで川越と江戸を結ぶ重要な舟運として大きな役割を果たした。新河岸川の主たる水源は川越城の東方にある伊佐沼に発し、武蔵野を流れ下って荒川と合流している。新河岸川の舟運の始まりは、寛永15年(1638)仙波東照宮が川越大火で川越13.jpg焼失した折、時の藩主堀田正盛が再建に必要な資材を江戸から送るのにこの水路を利用したことに始まる。しかし当時はまだ未整備の水路で、これを本格的に改修したのは五代藩主松平信綱である。信綱は陸路の川越街道だけでは江戸との流通経済に不十分と判断し新河岸川を開削した。正保4年(1647)には 川筋に河岸場が開設され、多くの問屋の舟が行き交って大変賑わったという。
 続いて東明寺に向かうことにする。東明寺は戦国時代の上杉氏と北条氏の関東支配権が逆転するターニングポイントになった歴史的場所だ。再びもと来た道を戻り、氷川神社前の通りを西へ進む。裁判所を過ぎた辺りで北へ向かう街路に入り、次の丁字路帯で左折すれば程なく東明寺の参道入口に至る。東明寺は本堂も小さくとても質素な寺だ。境内中央の銀杏の大木の下に「川越夜戦跡」と記した石碑が立っている。時宗の寺で正式には稲荷山称名院東明寺と称する。本尊は虚空蔵菩薩。鎌倉時代以前の創立と言われる。寺の位置は川越台地の北の端で、この辺りからは新河岸川を境として北側を入間川を主流とする分流川越14.jpgが幾筋も流れ水田地帯を形成し、古くから多くの武士団が存在していた。その中に桓武平氏の流れをくむ川越氏がいた。東明寺の寺領はその川越氏の荘園の東端にあったとされる。寺領は広大で東明寺村、寺井三か村、寺山村に及び、寺の惣門は今の喜多町の中ほどにあったという。戦国時代中頃の関東は関東管領上杉氏と新興勢力の小田原北条氏の覇権を争う場であった。天文6年(1537)北条氏綱に川越城を取られた上杉朝定は、天文14 年(1545)城を奪還すべく、今まで相争ってきた山内上杉憲政、古河晴氏と連合し、8万の兵をもって川越城を包囲した。これに対し城内にたてこもる福島綱成ひきいる北条方はわずか三千、兵糧も尽き苦戦に陥っていた。ところが天文15年 (1546)北条氏康が8千の兵をひきいて援軍として駆けつけると、夜陰に乗じて猛攻撃を開始、これに呼応して城兵も城から出川越15.jpg撃、東明寺口を中心に激しい戦闘となった。まさかの夜襲に油断していた上杉・古河連合軍は耐え切れず散り散りに敗走した。この夜戦で上杉朝定は討死、上杉憲政は上州に落ちたという。北条軍が少ない兵力で大軍を打ち破った川越夜戦は戦略として有名で、東明寺の寺領と境内で行われたことから東明寺口合戦とも呼ばれる。
 東明寺を後にして、これより一番街の蔵造り通りを経て終着点本川越川越16.jpg駅を目指す。 広斉寺を左にやり県道12号線を南へ向かうと交差点「札の辻」に来る。よく知られる菓子屋横丁はこの辻を西へ200m進んだ所に横丁入口があり、昔懐かしい駄菓子屋が軒を並べている。またその横丁中程の一角に養寿院がある。曹洞宗の寺で寛元2年(1244)桓武平氏末の川越太郎重頼の曾孫の経重の開基になるという。一番街の蔵造りの商店街通りを進む。この蔵造りの街並みは黒漆喰の壁と観音扉、それに大きな鬼瓦を特徴としている。これらは火災に強い建物ということで発展してきた。すなわち明治26年(1893)の川越大火の折、旧市街地の大半が焼失した中で、寛政4年(1792)近江屋半右衛門が建てた大沢家の土蔵だけは焼け残った。このことから土蔵が耐火性に優れていることが実証され、川越商人が復興に際して、煉瓦建築ではなく蔵造りを選んだ。これにより今日の蔵造りの町並みの景観が生まれたという。
川越17.jpg 蔵造り資料館を右にやると「時の鐘入口」の丁字路帯にくる。左に入る道は鐘つき通りと言い、そこに川越のシンボル「時の鐘」がある。江戸時代の初期、酒井忠勝が川越藩主(1627~1634)の頃に建設された。忠勝は時間を徹底して守る人で、例えば江戸城登城の時間はいつも正確であったという。時の鐘はその後何度か焼失し、現在のものは四代目で、明治26年の川越大火の翌年に再建された。高さ約16m、三層の木造楼である。1日4回、時を告げている。時の鐘の櫓をくぐると裏側に小さな薬師神社がある。元は瑞光山医王院常蓮寺という寺で、明治維新の折に薬師神社となった。本尊は薬師如来で行基作という。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒にご利益があり、特に眼病にはいいという。なお鐘つき通りを更に進めば明治の初めに創業したという佐久間旅館がある。
 天明3年(1783)創業という菓子の老舗亀屋、その隣の山崎美術館をやり過ごし、更に通りを南へ仲町、連雀町へと進むと町並みは概ね現代風の商店街へと変貌する。程なく沿道左に浄土宗蓮馨寺の参道入口が現れる。これを左にやり500m も進めば終着点本川越駅に到着する。(完)
              

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