SSブログ

浜田山通信 №295 [雑木林の四季]

ドストエフスキー生誕200年

    ジャーナリスト  野村勝美

 ことしはフョードル・ドストエフスキーの生誕200年。没後140年ということで、一種のドストエフスキーブームが起こった。私も大学時代ロシア文学をかじったので、それなりの関心を持った。大学は早稲田の露文科だった。終戦直後の昭和23年5月に旧制の早大第2学院に入学、ロシア語が第一外国語志望者はわずか7人、とても一クラス編成することができないため、フランス語志望クラスに身を寄せた。翌年学制が代わり、新制大学がスタートし、新しくロシア文学科もできた。このときの新規入学者が25人くらいいたように思う。旧制学院の7人のうち露文科へ進んだ者は2人だけだった。5人はロシア語志願は少ないだろうと思って受験したもので、新生学部へ進学した時はロシア語と離れた。
 時はフランス文学全盛の時代で、スタンダール、バルザック、フローベール、マラルメ、ランボーなどをむさぼり読んだ。私は当時半分文学少年、半ば政治少年といった具合で、ロシア語科に入ったのもソ連に憧れたからだった。ロシア文学科では、ブブノワ先生のロシア語の朗読にはまった。主に19世紀のロシア詩人の詩の朗読だが、実にきれいな声だった。ブーリャ、ムグローユ、ニエーボ、クローエト・・・今も耳に残っている。あの瞬間はソヴィエト文学もロシア文学もなかった。ブブノワ先生はプーシキンと縁続きで、レールモントフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフの話もされた。ソチに帰国された時には朝日新聞の投書欄にお別れの原稿を投稿して、あとでサンデー毎日同期の徳岡孝夫がほめてくれた。ロシア文学ではトルストイ全盛時代で、「アンナ・カレーニナ」「戦争と平和」を競って読んだ。トルストイの前向きで希望の持てる文学と比べてドストエフスキーの「悪霊」や「罪と罰」は余りに暗すぎ、「カラマーゾフの兄弟」で腰を抜かさんばかりに呆然としたのは比較的最近のことだ。 もはやトルストイとドストエフスキーは比べものにならない。
 ただドストエフスキーが、今の私の年まで生き延びていたらどうだったかとも思う。ドストエフスキーは、ことし没後140年で、もし90歳まで生きていたら没後110年になる。まあ90歳まで生きたドストエフスキーなど想像を絶するし、そんなことを思うのもナンセンスだろう。
 そんなことより、私がロシア人が好きな理由の一つに次の格言がある。「100年学んでバカのまま死ぬ」。まことにおっしゃるとおりと思う。
 ことしも悲しい別れがあった。脳出血でリハビリ病院に入院中の7月、新聞でドメス出版専務編集長内田莉莎子さんの死亡記事に接した。内田莉莎子さんは、早大の2年ばかり先輩で、内田巌画伯のお嬢さん、早くからロシアの児童文学の翻訳で有名になった。ドメス出版を創設、「日本婦人問題資料集成」で毎日出版文化賞を受賞、その後も東京女性財団賞、赤松良子賞などを受賞、7月27日、老衰のため92歳で死去とあった。90歳をすぎると死因は何でも老衰で通る。誰か伝記を書かねばならない。内田魯庵・・・巌―莉莎子と大変だ。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。