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医史跡を巡る旅 №101 [雑木林の四季]

 「医史跡を巡る旅」№101 安政五年コレラ狂騒曲~浦賀前篇

        保健衛生監視員  小川 優

前回は浜浅葉日記に書かれた、すなわち太和田の浅葉仁三郎の耳に届いた、文久二年の三浦半島におけるコレラの流行状況を記述しました。それを地図上にプロットしたのが下の図になります。
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「文久二年三浦半島コレラ流行状況」

赤字の地名が流行しているとの記述のある村、地名の前の数字は日記でそのことが書かれた日にちとなります。初出日と地域の相関関係を追っていくと、コレラ流行はまず浦賀、大津あるいは三﨑を足掛かりとして三浦半島に侵入し、その後は陸路や通船といった人の往来を介して周囲の集落に広がっていったことが想像されます。

今回は、その三浦半島への侵入口の一つと考えられる浦賀を取り上げます。
浦賀は三浦半島の先端、東京湾口にあり、太平洋と浦賀水道の両方に面しています。それでいて湊自体は南側の開口部を除いて山に囲まれているために風の影響を受け辛く、湾内の波は穏やかで、さらに水深のある深い入り江なので大型船も入れる天然の良港となっています。江戸時代には漁業および干鰯(ほしか)を扱う湊として賑わいました。干鰯はその字のごとく干した鰯で、肥料として重宝されました。人糞と異なり扱いやすく、軽量で保管・運搬にも適していたため、鰯の漁獲の多い房総半島から、綿花栽培が盛んで一大消費地であった関西方面へ、船で大量に輸送されました。その流通を担う干鰯問屋が東浦賀に集中しており、西浦賀に奉行所が移ってくるまでは、東浦賀が浦賀の中心をなしていました。

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「浦賀奉行所跡」 ~神奈川県横須賀市西浦賀5丁目

享保5年(1720)に下田にあった奉行所が西浦賀に移転、船番所ができると状況は一転、西浦賀は廻船問屋が集まる流通の要所となります。浦賀奉行所の役割は、東京湾に出入りする全ての船舶を停船させて「船改め」、つまり積荷および乗員・乗客の検査を行うことでした。例外が前回ご紹介しました押送船。江戸肴市場への鮮魚運搬専用船である押送船は、鮮度を保つための迅速性が求められたために船改めが免除されていました。

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「浦賀奉行所跡説明板」 ~神奈川県横須賀市西浦賀5丁目

海の関所として陸同様、入鉄砲に出女は厳しく吟味されたほか、申告にない御禁制品を積んでいないか、あるいは物価・流通統制を目的として、米など生活必需品については積荷の量も正確に確認しました。さらに船員名簿と照らし合わせて、水死や船中での病人があった場合の対応、処理も行いました。いわば現代のQIC、つまり検疫、出入国管理、税関の全てを兼ねていたこととなります。これら専門的で技術的な全ての業務を、一般行政職である奉行所与力、同心だけでこなすのは無理があります。そこで餅は餅屋、廻船問屋に委託して検査を代行させます。

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「廻船問屋跡」 ~神奈川県横須賀市西浦賀

浦賀は湾の東側の東浦賀と、西側の西浦賀に分かれています。干鰯問屋を中心とした東浦賀の問屋組合と、新興の西浦賀の問屋組合、そして奉行所の移転とともに一緒に越してきた下田問屋があり、総称として三方問屋と呼ばれていました。よく時代劇で聞く廻船問屋は、自ら船を所有し、積荷や旅客の運送で利益を出す、現在の商船業としてのイメージが強いですが、湊の問屋も宿場町の問屋と同じく、役人・準公務員的な役割を担っていました。
ちなみに下田から浦賀に奉行所が移転した理由ですが、下田港が外洋に面しているため波風が強く、さらに岩礁が多いため海難事故が多かったからとされています。それよりも東国から江戸に向かう場合、わざわざ下田まで回航するのが手間だったからではないでしょうか。

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「廻船問屋跡説明板」 ~神奈川県横須賀市西浦賀

その下田から奉行所についてきた廻船問屋が、「浦賀書類 浦賀詰下田廻船問屋 諸御用日記」を残しています。寄合や申し合わせ内容の覚書、奉行所からの通達をはじめ、船改めで摘発した違反や、船中で発生した病人の記録が克明に綴られています。

状況説明が長くなりました。やっと安政コレラの話となります。下田問屋御用日記の中から、安政五年七月以降の船頭や水主の病死の関する記述から項目だけを抜き書きしてみます。順番に死亡日と船の所属、乗組員数、病死人の身分と名前、()内は年齢となります。

七月廿日 松平薩摩守御手船 15人乗組 乗客28人 水主源次郎(31)船中病死
八月九日 摂州青木七郎兵衛船 16人乗組 水主市蔵(33)上陸後病死
八月十五日 越後国脇川直乗吉蔵船(津軽青森出港) 8人乗組 水主市蔵(58)船中病死
      常陸国中之湊長四郎船 9人乗組 船頭清兵衛(年齢不詳)上陸後死亡
八月十六日 仙台石巻吉兵衛船 16人乗組 水主久太郎(41)滞船中病死
八月十八日 伊予国松山直乗吉平船 13人乗組 水主敬蔵(45)滞船中病死
      仙台石巻吉兵衛船 15人乗組 水主熊吉(不詳)・勘助(20)滞船中病死
八月廿日 芸州広嶋庄右衛門船 13人乗組 水主由五郎(23)船中病死
     仙台石巻吉兵衛船 13人乗組 水主六三郎(不詳)滞船中病死
八月廿二日 摂州御影直乗市右衛門船 久兵衛(30)船中病死
八月廿三日 仙台石巻吉兵衛船 15人乗組 水主久兵衛(48)船中病死
八月廿五日 大阪彦太郎船 16人乗組 水主万之助(30)船中病死
      仙台石巻吉兵衛船 水主貞助(不詳)船中病死
八月廿八日 摂州兵庫市右衛門船 16人乗組 水主松兵衛・政吉滞船中病死
      大阪下馬工郎彦太郎船 15人乗組 水主冨蔵滞船中病死
八月廿九日 大阪下馬工郎彦太郎船 14人乗組 水主氏名不詳滞船中病死
      紀伊国大川甚平船 11人乗組 水主氏名不詳滞船中病死
八月晦日 大阪本町重次郎船 16人乗組 水主吉蔵上陸後病死
        播磨国赤穂長之助船 18人乗組 水主氏名不詳船中病死
九月二日 摂州鳴尾半右衛門船 15人乗組 水主熊次郎(33)船中病死
     日向国油津半兵衛船 袈裟太郎(28)船中病死
九月三日 摂州伊丹泰蔵船(越後出港) 嶋太蔵(不詳)沖合病死
        播州赤穂幸五郎船 12人乗組 坂越吉三郎(43)船中病死

「病死」と記載されているだけで医者が診ていたとしても、当時はコレラの原因もわからない中ですから、確定診断はできません。従って記述された死者の死因を、全てコレラであると確定することはできませんが、九月二日には奉行所から、今回の流行病により廻船の船中などで病死した者の数、および東西浦賀における病死人の数を報告するように命じられ、次のように答えたと記録されています。

九月二日 晴天・北風
一、堀芳次郎様ゟ三方へ、先達中諸廻船水主共悪病流行ニ付 当地ニて病死致候人数三方共書上候様被仰渡候ニ付、今日書上申候、左之通、
西問船  四人   八月晦日迄
東問船
下田問屋 弐拾壱人 九月二日迄
東西病死人調
西 六十八人
東 七十九人 九月二日迄

下田問屋分が21人、先の記録とぴたりと合っています。状況的に流行病で亡くなった可能性の高いものを数え上げていると考えられ、記述疫学的に信憑性の高い記録と見なすことができるでしょう。
下田問屋の御用日記では空欄となっている東浦賀の廻船水主死者ですが、「相州三浦郡東浦賀村(石井三郎兵衛家)文書 諸日記」には、東浦賀側のまとめた数字として次のように記録されています。

九月中
一、同二日 晴天、北風、地方御役所ゟ八月八日ゟ晦日迄死人町々ニ何人、外廻船水主何人取調可申出旨被仰付候ニ付、左之通書上ル、新井町死人拾五人内男拾人女五人、須崎町拾六人内男拾人女六人、新町廿壱人内男八人女拾三人、大ヶ谷町廿四人内男□□人女□□人、古町三人内男弐人女壱人
〆七拾九人 男四拾三人女三拾六人

外廻船水主・東問屋問船斗り五人
右書上相候、
これを見ると、東問屋扱いの廻船水主病死者数が五人であったことがわかります。東問屋5人、西問屋4人、下田問屋が29人で、安政五年八月に浦賀で死亡が記録された廻船水主の総数は、38人に上ります。同じ時期の東浦賀、西浦賀の町人の病死人数が79人と68人ですから、人口比など母数から考えても、水主の死者発生率は高かったことが想像されます。


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「安政五年 浦賀下田問屋扱廻船水主病死者数推移」

下田問屋扱いの8月9日から9月3日までの間の廻船水主病死者について、死亡日と船の所属が江戸より東か、西かで色分けしたグラフを作ってみました。8月25日頃までは東国、それも仙台石巻湊所属の船からの死者発生が、その後は西国の船における発生が見られます。先入観で西から船による侵入と思い込みがちですが、船という特性上、寄港地で飛び火的に患者を発生させることができますから、感染した船員により、九州、大阪から直接江戸や石巻など主要港へ感染が広がり、そこからさらに各地に感染を広げたという仮説が成り立ちます。なおコレラの潜伏期間は半日から五日、症状が出てから死亡するまでは数日、栄養状態によっては半日などということもありますから、寄港各地で感染し、船中で発病・死亡するまでに要した日数と航海日数とに大きな乖離はありません。

この後も江戸をはじめ、東日本各地の流行状況について取り上げる予定ですが、この時の江戸と仙台における流行状況はどうだったのでしょうか。
江戸においては「七月末より頓死のもの多し、八丁堀辺殊ニ多し、疫癘なるへし」(大日本古記録 齋藤月岑日記)とあるように7月下旬から流行し始め、8月上旬には「此節ハ品川へ繋泊の御船ゝ江もコレラ伝染船子も死亡有之士官以上も皆ヨハリ東条英庵船中病者の為参り居り是も伝染重体となる扨ゝ可驚事ニ有之候」(木村喜毅宛岩瀬忠震八月十三日書簡)というような状況でした。
一方仙台では、宮城県衛生研究所初代所長を勤めた青木大輔氏の「疫癘志」(宮城県史 第22(災害))によると、「仙台・塩釜地区は、九月から十月にかけて流行した」とあり、安政五年に患者が発生したことは間違いないようです。ただし時期的にズレがあります。元々この地域の安政五年の流行がわかる史料は少なく、新たな資料の発掘が待たれます。

今回状況の把握のために日記からは項目だけを抜き書きとしましたが、実際の記述にはもっと詳しく状況がわかるものがあります。

八月十五日 曇天・北風
一、山本重兵衛問屋、常陸国中之湊長四郎船沖船頭清兵衛九人乗、罷登滞船中、右船頭病気ニ付医師下条俊起相頼薬服用致候得共、養生不相叶小宿気仙屋長七方ニ而病死、例之通御検使相済、
御検視            常陸国中之湊長四郎船
  土屋栄五郎様          沖船頭代 市蔵
  伊東佐吉様           船宿下田
    医師               山本重兵衛
      下条俊起様         小宿
      常福寺             気仙屋長七

日記の中では記述に際し「船中病死」と滞船中「病死」を使い分けており、前者は航海中の死亡、すなわちDOA(到着時死亡)、後者は着港時に発病していて検疫停船中に死亡したものと推察しました。また上陸後病気療養中に死亡した事例もあり、上の例はそのパターンになります。
また記録の中で所属港、所有者については必ず書かれていますが、一部はもっと詳しく、出港した湊や積荷に関する記述もあります。

八月十八日 晴天・北風 申下刻南風
一、川村仲左衛門問船 伊予国松山直乗吉平船水主十三人 此度塩カ積入、当十五日入津御改済滞船之処、水主之内敬蔵と申者当年四十五才ニ相成候者、於船中病死致、例之通御検使相済申候、

八月十八日の記録を例示します。「愛媛県松山の船主自らが船頭を兼ねる13人乗組みの廻船が、15日に入港して船改めを受け、浦賀で塩カ(元文ママ。干鰯のことか?)を積込中に、45歳の船員啓蔵が滞船中の船内で病死した」と書かれています。十五日の記録と異なり、「養生不相叶」と書かれていないので、治療がなされたかどうか、さらに15日の入港時にすでに体調を崩していたかどうかはわかりません。

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「浦賀港渡船から見る浦賀沖」 ~神奈川県横須賀市浦賀湾

廻船水主が浦賀にコレラを持ち込んだとして、この地域に流行が広がったルートについてもおさらいしてみましょう。安政コレラの初発も、長崎に入港した米艦ミシシッピ号の一乗組員からでしたね。

まず第一が人を介した感染。
到着後治療の甲斐なく死亡した場合、また日記には感染発病したが後に回復した水主がいたのかどうかは記されていませんが、このような水主の治療や介護にあたった者は感染リスクが大きいです。
また船中で病死しても当時の日本には水主を水葬にする習慣はなく、奉行所の改めを受けた後、陸に揚げられて近在の寺院に埋葬されます。遺体の埋葬にあたり、その作業に携わった人間が感染する可能性もあります。
さらに同じ船に乗船していたほかの水主も感染していた可能性は高く、彼らが上陸して拾人にうつしてしまうこともあったかもしれません。

第二が病人の吐物や糞便が水を介して飲料水や魚介類を汚染、または直接環境を汚染することにより住民か感染するパターン。
コレラ菌はもともと東南アジアの汽水域に常在する細菌です。一旦河川や海域が糞便等で汚染されると、飲み水そのものや、海水を介して海産物にコレラ菌が含まれるようになり、それを飲食することによって感染、発病します。

こうして浦賀に持ち込まれたコレラが、地域に広がります。次回は町方に注目して浦賀の感染状況を追います。


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柴崎 進

 コロナ禍がきっかけで安政コレラの調査が趣味となってしまった一個人です。ブログ持ってないので、メールアドレスを記入しました。
 まず、小川様の素晴らしい調査に感激しました。特に水主病死者数は今まで注目されていないので、新発見に繋がる貴重な情報と思います。例:島津斉彬の死因がコレラと特定されるかも?
 最後に私が見つけた参考情報:ミシシッピ号は長崎出港後、伝染性下痢患者を約50人乗せた状態で、下田、箱館に相次いで入港しています。


by 柴崎 進 (2022-10-10 11:09) 

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