SSブログ

道つづく №25 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 逃げ水(2)

        鈴木闊郎         

 わたしは、昭和十二年(一九三七)七月二日、東京府北多摩郡立川町千八百七拾五番地で父貞治、母ゐねの次男として出生。姉三人、妹、弟がいた。三人目に男子が出生したが夭折したため、わたしはずっと長男扱いで育てられた。生家の環境や、父については前号に記載したので、母のことを簡単に述べてみる。ゐねは明治三十七年六月十日、立川町二千四百八拾番地(現曙町一丁目)で初代宮崎治助を父、母ふよの長女として出生。兄伝蔵は後二代治助と改名、家庭金物から建材用品などを扱う「宮崎商店」を手広く経営していた。
 戦前の東西にのびる駅前通りは、南の踏切り(現在は地下道)を南から北に渡ると、左角が丸山商店。北側の現在もある谷文具店の交差点より駅よりを本町一丁目と称し、交差点より西を本町二丁目と称したという。戦後本町一丁目は立川銀座通りと名づけられ、二丁目は立川西銀座通りとなったが、現在は駅前から青梅線の踏切りまでを通して、昭和記念公園通りと称している。
 宮崎商店は丸山商店の角を左折して数軒目にあり、「金物屋」とよばれ、近郷ではしらぬ人のない老舗であったが、現在は同地に治助がビルを建築、「金物屋」はもう存在しない。治助の長男条一氏が、しばらくのあいだ青梅線の踏切りを渡り高島屋に至る通りで「金物屋」を引き継いでおられたが、創業百二十年目を機に看板を降ろし、悠々自適。現在もご健在である。なお、祖母ふよは富士見町四丁目の奥多摩街道沿い、通称かやと(当主鈴木簗一氏)宅の少し西側の井上家(当主井上柴一氏)の出である。
 第一小学校の東側に、府立蚕糸試験場があった。現在は一小のサブ校庭になっている。今は角地に貞明皇后の歌碑が現存し、わずかにその存在が偲ばれるのみである。ゐねは二十歳前後、そこの事務員として勤務していた。試験場に就職するのは当時でも、至難であったそうだ。ゐねは毎日南の踏切りを渡り、髪を「二百三高地」(当時大流行であった日本髪の形)に高々と結い上げ、袴を着用して諏訪通り(当時は小学校通りと称していた)を通り通勤した。父はその姿を折に触れ垣間見てときめきを感じ、自ら治助に談判に及んだとのことである。父母の馴れ初めかくのごときものであった。ゐねはおおらかな性格で、商家育ちのゆえかきさく、男のように大きく、上手な字を書いた。
 わたしは、母親に叱られた経験は一度も記憶にない。わたしが小学生のとき、給食に二枚の食パンが出た。
 すべて暗い時代であったが、そのパンの白さは目に眩かった。わたしは一枚を残し、家に持ち帰って母に渡した。「自分が食べればいいのに」母は呟いて、うしろを向き割亨着の袖を目に当てた。
 昭和四十年七月他界。享年六十一歳。戒名、冷月妙稲大姉。

 平成二〇年(二〇〇八)冬
      「the SOUND of Oldies in TACHIKAWA yamastimes vol.2」より


nice!(1)  コメント(1) 

nice! 1

コメント 1

相良

40年近く前に宮崎治助さんご夫婦にはお世話になりました。何となく立川を思い出して、金物屋さんはまだあるのか調べたらこのブログがありました。
by 相良 (2024-02-23 16:12) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。