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妖精の系譜 №16 [文芸美術の森]

テニソンとラファエル前派 1

       妖精美術館館長  井村君江

ヴィクトリア朝の理想像を描いたテニソンの『国王牧歌』 

 アルフレッド・テニソン(一八〇九~九二)は、若いころからマロリーの編んだアーサー王物語に心を惹かれていたが、手始めに、窓の外を通る騎士ランスロットを恋い慕い、その瞬間に呪いのため鏡が割れ、死にゆく身をただよう小舟に横たえる可憐なエレイン姫を『シャロットの女』という詩作品として一八三二年に書いた。十年のちに『アーサー王の誕生』(一八四二)を断片のまま公けにしたが、これがアーサー王の世界を次々と歌う端緒であり、これより十五年のち、伝説の世界を自らの考えで再構築した『国王牧歌』の連作を、一八五七年から一八八五年にかけて執筆していき、一八八九年に十二巻のまとまった形として発表する。最初に用いた叙事体から牧歌体に変えたためこの題名があり、静的な(スタティック)落着きある調子で、物語を展開させている。円卓の騎士たちが王のもとに、理想的国家を建設する雄大な目的で結集していたが、王妃グウィネヴィアと騎士の長であるランスロットの不義の愛のためにその理想は揺らぎ、また騎士たちが聖杯探究という幻影を追って旅に散っていったため結束の力は破れ、国は荒廃してアーサー王は戦いに倒れるという、高い理想も一つの罪や幻のためにもろくも崩れ去ることが物語の主題の中心におかれている。
 全作品を筋に沿って配列すれば次の通りである。『アーサーの誕生』(一八六九)、『ガレスとリネット』(一八七二)、『ジエレイントの結婚』『ジエレイントとユニード』(一八五九)、『ベイリンとベィラン』(一八八五)、『マーリンとヴィヴィアン』(一八五九)、『ランスロットとエレイン』(一八五九)、『聖杯』(一八六九)、『ペレアスとユター』(一八奥九)、『最後の馬上試合』(一八七一)、『グウィネヴイア』(一八五九)、デーサー王の死』(一八六九)。物語の主な出来事は、例えばアーサーの誕生は一月元旦、結婚は春、聖杯出現は夏の夜、最後の馬上試合は秋、最後の戦いは冬で、終末から未来の再生と春を暗示するというように、;一つが季節の変遷の枠組の中に配置されている。
 アーサー王は国家の統治者であり、すぐれた戦士として騎士道の中心者であり、ヴィクトリア朝のモラルである紳士道を体現したような理想の人物として描かれている。グウイネヴイアは「官能」の世界を示し、アーサーは国家的公けの生活と官能世界と双方の戦いに身を置く。研究者リチャード・バーバーはさらに、円卓は「自由な制度」を象徴し、魔剣エクスキャリバーは「戦い」、アーサーの息子で王を死に陥れるモルドレッドは「懐疑主義」、マーリンは「科学」、湖の貴婦人のニミュエは「邪悪と堕落」を象徴すると指摘している。スペンサーの『妖精の女王』のように寓意的な意味を人物から汲みとれるわけであるが、女王エリザベス一世を中心としたエリザベス時代の人物を女王と十二騎士で描いたスペンサーに対し、テニソンもある意味でヴィクトリア女王を中心としたヴィクトリア時代を、アーサー王と円卓の騎士に仮託して描こうとしたと言えるかも知れない。
 また、冷静で崇高で節操のあるアーサー王が、騎士道の理想的制度を設立しようとする精神の一方で王妃の美に溺れ、官能の雷に迷うことや、魔法使いマーリンの知性が湖の精ヴィヴィアン(ニミュエ)の肉欲に迷って永遠に封じ込められるのは、知識人の堕落を示しているという解釈もできよう。テニソンが描こうとしたのは理想的な王としてのアーサーで、それがヴィクトリア時代のモラルを象徴的に示したものであるか否かは別として、またこの考えを継承するか反駁するかはあるとしても、この人物像が次のラファエル前派の作家や画家たちの描く騎士像の形成に、大きな影響を及ぼしていくのである。
 堅固な枠組みの中に寓意詩ともとれるように象徴の衣を着せられたテニソンの『アーサー王物語』の人物は、動きを抑えられ、人物たちが生きていないという評もうなずけるし、超自然のものたちもその取り扱い方をまぬがれていないので、妖しい魅力や捉えがたい標紗とした神秘性などは失われてしまっている。テニソンにとって影の国は、ヴィヴィアンが美と官能、誘惑と邪悪を象徴しているように、現実の理想の破壊的要因としての意義はもたせられているが、物語の重要な要素とはなっていない。しかし魔法使いマーリンは、その知性と術によって重んじられている。『国王牧歌』の『マーリンとヴィヴィアン』では、ヴィヴィアンの術にかけられ、はかなくも樫の木のほこらに閉じ込められてしまうが、テニソンは八十歳の晩年になって、再びマーリンを『マーリンと微光』(一八八九)という作品で取り上げ、テこソン自身を思わせる老詩人の悌(おもかげ)を重ねて歌うのである。
 『マーリンとヴィヴィアン』は、嵐の来るプロセリアンドの森の樫の木のほこらの前で、マーリンの膝の上にヴィヴィアンが横たわっているところから物語は始まるが、マーリンが伝授した術によってヴィヴィアンに樫の木のほこらに閉じ込められる最後の場面まで、二人の会話ですすめられていく。ヴィヴィアンがマーリンの首に腕をまわす仕草が「蛇のようにまとわりつく」とか、彼女の髪の毛から飾り紐の「金の蛇」がすべり落ちるというように、彼女には誘惑者である蛇の映像が重ねられている。次の詩行はこの詩の最後の場面である。

  マーリンは - ヴィヴィアンにすべての呪文を教えてから、眠ってしまった。
  次の瞬間、彼女はたたみこむような調子で
  手をくねらせながらその呪文を唱えた。
  マーリンは樫の木のほこらの中に死んだように横たわったまま、
  命も能力も名前も名声も失っていった。

  すると「おまえの栄光は私のものになった」という叫びが聞こえたかと思うと、
  「おお、愚かもの!」というかん高い叫び声をあげながら、
  この淫婦は森を跳び出し、茂みをあとに立ち去ってしまった。
  そして森にはその声がこだました、「愚かもの!」

 一方で『マーリンと微光』の中のマーリンは、老境に入り生きてきた過去をふり返りながら、若い「船乗りたち(マリナー)」に「微光」を追うことの大切さを教える詩である。これはそのまま魔術(詩技)を会得した老魔術師(老詩人)が、人生航路に出発しようとしている若い船乗り(若い詩人)たちに微光(詩的想像力)を求めることの重要さを説くものと解されよう。
 「神秘をたたえた目をした、白髪の魔術師」はいつも「微光を追っていた」、「私はマーリンだ」「私は死にかけている」。こうした締句には齢八十に達した桂冠詩人テこソンの俤(おもかげ)が浮かんでくる。

  それから旋律(メロデイ)を求めよ。
  森の妖精、
  洞窟のノーム、
  グリフィンや巨人や、
  もの淋しい谷間に
  踊る妖精たちや、
  山の生霊たちや、
  わきたつ水のほとりに、
  とぐろ巻くドラゴンが、
  つかのまに現れては見える
  荒野の彼方に。
  あるいは、渓流が集まり落ちる
  滝の音楽の中に。
  つかのまに現れては消える
  微光を求めよ。

 ここで歌われている妖精たち超自然の生きものは、山や森、流れなどに棲む自然の精霊であり、竣詩人が追い求める詩的創造の「微光」の中にたち現われるものになっている。『アーサー王物語』に登場する美しいが人を惑わし、官能の力で男を悪に陥れる湖の妖精たちとは、次元を異にした存在であり、テニソンの詩の中で妖精など超自然の生きものたちは、詩の中心主題にはなっていないが、詩源の近くにいて、重要な意味をもたせられていたことが、うかがい知れるのである。

『妖精の系譜』 新書館

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