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雑記帳2021-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2021-12-1
◆静岡市由比の地に広重美術館があります。11月は十返舎一九の弥次喜多道中に合わせた広重の「東海道五十三次」展が開催されていました。

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東海道五十三次展のポスター

『知の木々舎』の『西洋美術研究家が語る「日本美術は面白い!」』は日本固有のの伝統的な文化だと思われている琳派や浮世絵の画家たちの作品を西洋美術の視点から眺める、ユニークな展開が好評です。
今、安東広重の『東海道五十三次』を終え、同じ画家の『江戸名所百景』を連載中です。

広重は寛政9年(1797)常火消同心の家に生まれました。13歳で両親を相次いで亡くし、家督を次いで、火消同心となりました。
幼い頃から絵が得意で、狩野派の絵師との交流もありました。当時、微禄の御家人は副業をもたざるを得ず、広重も家計の補助として絵の道をさぐっていたようです。16歳で画壇デビュー、27歳で年下の叔父に家督を譲って、画業に専念することになります。師匠は歌川豊広、

19世紀にはいると、江戸は空前の旅ブーム。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がベストセラーになりました。同時に出版技術が向上した時代でもありました。
版元の保永堂から東海道に取材した風景版画を依頼された広重は、天保4年(1833)、「東海道五十三次」を発表して大人気となりました。18世紀前半に遠近法が伝わってから100年が経ち、2年前には葛飾北斎が「富嶽三十六景」を発表して、深みのあるベロ藍がふんだんに使われるようになっていました。

その後、街道ものの他名所図絵師の第一人者として、多くの作品をてがけました。安政3年(1856)60歳で剃髪して法体となるも健筆を振るい続けて、安政5年(1868)コレラで亡くなりました。まだ62歳の若さでした。コロナ禍の現在、なんだか身につまされますね。

広重の風景画には真実味があり、もっともらしさが人々に受けたと言われます。彼には「写真(しょううつし)」という言葉通り、写生したように表現できる自負がありました。更に、写生画に取捨選択するという演出を加え、理想の心象風景にしあげたのです。その、温雅で文学的な情趣は破綻がなく、日本人の感性に通ったのでしょう。広重は死ぬまで売れっ子でした。

保永堂版の五十三次から15年後に再び注文を受けて制作したのが、今回企画された五十三次でした。
保永堂版ではなく隷書(れいしょ)版と言われるこのシリーズは、日本橋を横からではなく正面から描く構図や、鞠子のとろろ汁の茶店、山中で突然の驟雨に慌てる旅人などの、ドラマチックな仕立てで私たちになじみの広重はありません。まるで今の観光地の絵ハガキを見るように描かれています。
保永堂販を見慣れた私たちにすれば、堅苦しくて面白みに欠け、色も全体に薄く、地味な印象です。また、色を載せずに凹凸感だけで煙を表すからくり技法と呼ばれる技法は、摺り師といったいになって工夫を凝らしたものでしたが、そのような画面は見当たりません。
それでも当時、弥次さん喜多さんと一緒に旅する気分はそれなりにうけたという事でした。

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保永堂版の日本橋
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ポスターにも使われている隷書版の日本橋

東海道は慶長9年(1604)、日本橋が起点となって宿駅の整備がはじまりました。
寛永元年(1624)に完成、様々な人物が東海道を旅しました。
由比宿は江戸から36里、旅籠は32軒ありました。「さざえの坪焼」が名物でした。今、この辺りの特産物は桜エビ。季節にはゆでたエビを干して浜が真っ赤にそまるそうです。

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お昼に食べた桜エビ御膳(箱の右上が桜エビのかき揚げ)

東海道五十三次の16番目に、由比宿の薩埵峠(さったとうげ)が登場します。
保永版では、峠道はただの断崖絶壁で、画面の左上にいる三人の人物が、眼のくらむような斜面から今にも転落しそうに描かれていて、ここがいかに難所だったか、広重は緊張感あふれる大胆な構図で表現しています。

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保永堂版の由比宿

現在、由比宿の本陣跡は整備されて由比本陣公園になり、広重美術館は交流館と並んで、園内にあります。

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本陣公園正面
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交流館
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広重美術館

由比の本陣は街道に家屋を直面せず、石垣と木塀が作られています。敷地は1300坪、物見やぐら・本陣井戸がのこっています。石垣にそった水路は馬の水飲み場でした。

本陣当主は、1560年に今川義元とともに桶狭間の戦いで討ち死にした由比助四郎光教の子が帰農してからと言われ、代々継承されています。

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本陣水飲み場跡 のコピー.jpg
かっての馬の水飲み場ではいま、亀が甲羅干し
本陣を中心に、かっての由比宿を歩いてみました。宿場の入口は、街道をカギの手に曲げて桝形にして万一の攻撃に備え、更に木戸や土塁を作って宿場の印になっていました。桝形は西の出口にもありました。

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桝形の跡(写真の道の真中へんにかすかにカギに曲がっている跡がある)

西国の大名の中には、江戸の屋敷と領国の居城との連絡に直属の通信機関(七里飛脚)をつかっている大名もありました。お七屋飛脚の役所跡は紀州徳川家のもので、当時、江戸~和歌山間584kmに七里(28km)毎に中継ぎ役所を置き、主役(お七里役)と飛脚5人を配置していました。毎月3回、江戸は5の日、和歌山は10の日に出発し、普通便なら8日間、徒急便なら4日間で到着したそうです。
飛脚は剣道・弁節に優れた者で、昇り下り龍の伊達半纏をまとい、「七里飛脚」の看板を持ち、刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来したそうです。

今、年配者以外知る人も少なくなりましたが、名前の通り、由比正雪はこの地の生まれです。江戸時代から400年続く正雪紺屋は正雪の生家とされ、藍甕や染物道具、藍染明王の神棚などが残っています。
正雪の乱そのものは未然に発覚して自刃しましたが、4代将軍家綱の時代、それまでの大名取り潰しによって全国に溢れていた浪人の増加が社会不安にむすびついていることが事件の背景にあるとして、幕府はその後、武断政治から文治政治に舵を切ることになります。

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正雪紺屋
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現在は使われていないが、店内に藍甕が残されている。

本陣は参勤交代の大名や幕府役人が宿泊する施設、多くは名主の居宅が指定されました。宿の主人には名字帯刀の特権があたえられましたが、宿泊者からは謝礼のみで、これは支払う側にも接待する側にも大層な負担だったようです。中には本陣を辞退するという申し出もあったとか。そんな中で由比には脇本陣が3軒もあったことから、町が豊かだったことを伺わせます。江戸後期から脇本陣を務めた温鈍屋(うんどんや)が残っています。
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脇本陣の温鈍屋

明治4年、日本に郵便制度が創設されました。江戸時代の飛脚屋は「由比郵便取扱所」になり、明治6年「由比郵便局」になりました。明治39年、当時の郵便局長が自宅を洋風の局舎に新築して郵便局を移転、建物は昭和2年まで郵便局として使われていました。現在は私宅となっています。

郵便局 のコピー.jpg
私宅なので塀越しにしか見られないが、なかなか立派な元郵便局

西の桝形を過ぎれば由比川です。川には仮設の板橋が架けられて旅人はそれをわたっていました。雨で水量が増すと橋は取り外されました。徒歩で渡る川は徒歩(かち)渡りと呼ばれました。由比川で溺れた水難者を供養する入上(いりがみ)地蔵がまつられています。

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由比川


このほか、1キロたらずの街道沿いには、先のお七里飛脚役所跡や正雪紺屋、郵便局をはじめ各所に説明版があり、今も旅人には親切な街でした。

加宿問屋場跡 のコピー.jpg

宿場のはずれに、ガイドさんおすすめの菓子屋「春埜製菓」があります。道中弥次さん喜多さんも食べたというたまご餅を、おばあさんが今も一つ一つ手作りでつくっています。大正15年の創業だということでした。

春野製菓 のコピー.jpg

浮世絵は、どのように絵を描くかを決める版元と、構図や絵を描く絵師、色を付ける摺り師の共同作業です。これは現在のアニメ制作と似ていると言われます。北斎漫画のような、個人の連作そのものも勿論、アニメだと思わせますが、日本にはそれぞれの分野のスペシャリストが協力しあってより素晴らしいものを作り上げる伝統があることをしみじみ感じさせます。それこそが日本の文化なのでしょうか。


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