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浜田山通信 №294 [雑木林の四季]

「故里は浜田山」

       ジャーナリスト  野村勝美

 私はことし92歳だが、故里といえば、生まれ故郷福井を思い出す。実家から50メートルばかりのところに福井市を東西に貫流する足羽川が流れ、私の四季を問わない遊び場だった。四、五歳の頃、急性肺炎に見舞われ、以来春先は川風に当たることが禁止されたが、それ以外は毎日のように川で遊んだ。
 私の生家は、川が堤防に当たって貫流するところにあり、堤防の土手の上には高さ1メートルくらいの石垣があった。川で洗濯をするために石垣が一間ほど区切られ、ここには洪水の際、丸太がはめ込まれた。堤防の石段の下には波除けの川戸があり、夏場、川戸と川戸の間は川の水がたまってメダカやコブナ、川ギス、ナマズ、コイなどがいっぱいいた。ここで長さ40センチほどの大ナマズを捕まえて粟縄でしばりあげ家に帰る途中、陸軍の大演習の行進にぶちあたり、ようやく家の庭の手水鉢に入れた時は、白いハラをだしてアップアップしていた。
 生まれ育った故里は、いくつになっても懐かしい。誰にとってもそうだろう。なかには故里を石もて追われるように離れざるを得なかった人もあろう。私はそんな人たちと出逢ったことがなかったので、自分は幸せな人間として今日までこれた、めでたい人間かもしれない。
 浜田山が故里だというのは、近くの開業医小泉先生の言葉だ。たしか小泉先生の先代は皮膚科の開業医で、私も若い頃、 足の指の爪水虫を診てもらったことがある。私は注射が大嫌いだった。爪水虫の注射とは大げさなと思ってそのまま行かなくなった。いまでは注射などなんともなくなったが、60年ほど前は大事件のように思われたのだ。
 息子さんの小泉先生は、その頃この世に生まれたはずだ。浜田山に生まれ育ったのだから、まさに故里は浜田山だ。私のような外来者には、それでもなんだか変な感じ。でもこの変な感じは、実際に浜田山に生まれ育った人には、私の次男もそうだが、全くない。生まれ育ったところが外国の場合は知らないが、すくなくとも日本国内では、故里は自分の生まれ育ったこところである。
 小泉先生は、大学の勤務医として残る道もあったが、故里の人のために開業医の道を選んだ。門前市をなすほど忙しい身でありながら、歩けない患者があれば、訪問医として自転車でかけつける。「私は生まれ育ったのが浜田山です。故里の人が病気ならかけつけるのが当たり前です。私は故里が大好きです。故里を愛しています。」
 なかなか言えない言葉だが、先生はなんのわだかまりもない。口にもし、実行に移す。先生のような故里浜田山人は、いまや東京の人口の半数をしめるのではないか。その際、ふるさと東京人とは言わず、区よりもっと小さく中学校単位くらいで呼ばれるだろう。いずれにしろ高度成長時代はとっくに終わっているのだ。
 

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