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医史跡を巡る旅 №100 [雑木林の四季]

安政五年コレラ狂騒曲~浜浅葉日記より、三浦郡後篇

     保健衛生監視員  小川 優

前回は三浦郡の安政五年の状況を取り上げましたが、今回は4年後の文久二年のできごとを辿ります。安政五年とは状況が異なり、浅葉仁三郎の身近にもコレラの影は忍び寄り、記録もより具体的、そして切実になります。
再び「浜浅葉日記」から、コレラに関する部分を抜き書きしてみます。

七月廿四日
一、小田原ころりと人病気流行の由、尤、藤沢近所ニ而も流行のよし昨夜浦渋谷宗誓様咄し、浦賀大津ニ而もころり流行のよし、昨日浦賀而三人あり候よし、

大津は横須賀市街を海岸沿いに南下、東京湾に面し現在も大津町と名乗っています。

七月廿九日
一、昨日三﨑よりの手紙ニ申参り候、ころりと申病気はやり、三﨑ニ而も三四人あり、うつりやき病気ニ而恐居候よし、鎌くら近所もはやり候よし承り候、

八月七日
一、幸三郎の咄し候、藤沢宿坂戸町ニ而昨五日ニはころりニ而六人死候よし、藤沢宿近所・鎌くら近所ニ而も恐居候よし、長坂近所・松わ・金田流行の由、
一、当里本家之里ニも題目念仏日々ニあり、毎夜百万返もあり、
一、家内ニ而盆中ゟ引続毎夜百万返いたし候、

長坂は大和田の北隣の地区、松輪は三浦半島の東南端、金田は松輪の北側に当たります。
離れた小田原の情報がいち早く伝わると同時に、藤沢、鎌倉、浦賀といった大きな町では次々と患者、死者が発生しており、太和田近くの村々でも感染が広がっているとの知らせがもたらされます。戦々恐々としている中で、とうとう身内にも発症者が出てしまいます。

八月八日
一、三ヶ浦七左衛門麻疹之後大病之よし本家より申参り候間、即刻本家へ行承り候処、兄三ヶ浦へ行、尤、夕かたニ帰り候、

三ヶ浦は現在の葉山町堀内。浅葉仁三郎の妻の実家があります。

八月十日
一、八ツ時より仕立や同道ニ而庚申様へ参りニ行、
一、本家より三ヶ浦より参り候手紙持使参り候、尤、七左衛門殿事よろしくなき由申参り候、
一、夜ニ入百万返念仏いたし候、尤盆中より引続きいたし候、

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「百庚申塔 専養院」 ~神奈川県横須賀市武

庚申塔参りに百万遍念仏。対策らしい対策がとれないまま、まじないに頼るしかありません。三浦半島には庚申塔が多く、庚申講がさかんであったことがうかがわれます。浅葉家も例外ではなく、浅葉本家の近くにあった専養院の裏手には庚申塔が集められており、その幾つかは浅葉家が建てたものだといいます。

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「百庚申塔 専養院」 ~神奈川県横須賀市武

よく見る庚申塔は石塔の真中に「庚申塔」と書かれているものが多いのですが、ここにある庚申塔のいくつかは、碑面全体に何個もの庚申塔の文字が踊ります。仁三郎はまるで趣味のように、度々地域の庚申塚巡りをしていることが日記から伺われます。
身中に潜み、庚申の夜に這い出て、天帝にその人間の悪事を密告に行くという三尸虫(さんしちゅう)を見張るために、集まって寝ずの番をするのが庚申講、講が結実した記念に辻々や街道沿いに建てられたのが庚申塚でした。その後度重なる災害のせいもあってか、設置場所的に重なる道祖神とも次第に同化し、災い除け、塞の神としても見なされるようになりました。

八月十三日
一、本家より兄三ヶ浦より帰り候よし申参り、即刻嘉十郎同道ニ而本家へ行、
一、昨十二日昼九ツ半時三ヶ浦七左衛門病死のよし、同日夜九ツ時ニおたせ病死いたし候よし、
一、三ヶ浦より使人両人参り候
一、本家より急き参り候よし申、夜ニ入使参り、手前は気分あしく休居り参り兼候よし申遣し候、又々使参り候、三ヶ浦兄大病之よし申参り、本家ニ居合候柳田先生即刻遣し、尤、熊二郎使ニ参り候よし、是も直ニ帰り候申参り、

八月十四日
一、三ヶ浦七左衛門内ニ而おくに・高次郎昨日病死のよし、流行のころりおそろしき事ニ候、

次々と知り合いが亡くなり、仁三郎は恐怖します。しかしこれで終わったわけではありませんでした。とうとう義兄も発症します。

八月廿二日
一、早朝ニ本家より使参り行、三ヶ浦兄よろしからずよし、本家へ人参り、本家兄即刻参り、手前も三ヶ浦へ行、秋谷迄源蔵同道ニ而参り、夫よりかこニ而行、
一、三ヶ浦兄朝六ツ時ニ病死致し候よし、ころ病ニ付門留置候ニ付、前の物置ニ而仕度いたし、夫より寺に行、御かゝ様寺ニ御出、帰りニ内へより柳田養春先生同道ニ而帰り候、尤、秋谷之かこ待せ置秋谷迄帰り、佐治兵衛宅ニ而休、夜ニ入帰り、本家養春先生送り定助遣し候

コレラの原因はわからなくとも、経験により人から人に感染することは理解されていたようです。門を閉ざして葬式らしい儀式もなく、会葬者も母屋に入ることができずに、物置で支度して寺に向かったようです。昨今のコロナ事情を彷彿とさせます。

八月廿三日
一、御触書之写
一、虎狼痢八月廿三日
  大悪日閏八月五日
右両日午之刻より未之刻迄、湯茶・莨(たばこ)ニ至る迄可慎、右不慎ニ於てハ即死す、両日朝五ツ時前、黒豆八ツ・米八勺せんじ、家内一統ニ而用べし、

この時期になって今更ですが、陣屋からお触れが出ます。内容は予防法というより心得、精神論、まじないの類で、「守らなければすぐ死ぬぞ」と脅している辺りからも胡散臭いです。陣屋が萩藩から熊本藩に替わっていますので、そのあたりも関係あるのでしょうか。

八月廿九日
一、長坂・林・秋谷ころり流行のよし、恐鋪事ニ候、

閏八月二日
一、松輪神主御出
   我端居悪気来るな
    幾年も神の利益のあらんかきりは
         神祇官山代正峰
右之通り書被置候、
 茶を出し、夫より餅焼出し候、即刻帰り候、

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「松輪 神明社」 ~神奈川県三浦市南下浦町松輪

松輪村の鎮守は神明社。松輪神主とは、おそらく松輪の神明社の神主のことだと思います。その神主さんが、わざわざ大和田まで出向いてきたようです。松輪から太和田までおよそ11キロあります。八月七日には、すでにコレラが流行っているという記載もありました。「蘇民将来」や「大口真神」など、疱瘡や麻疹が流行った時にするように、まじないの言葉を書き付けた紙を、門口や戸口に貼って病魔の侵入を阻もうとするものでしょう。

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「松輪から眺める浦賀水道、房総半島」 ~神奈川県三浦市南下浦町松輪

松輪は岬にあり、外海に面していて入江も水深がありますから港には向きますが、急峻な崖に囲まれて平地があまりありません。鎮守も海岸ではなく、崖を登った台地の上にあります。岬で、さらに台地ですから大変見晴らしがよく、地場産物の大根やキャベツ畑ごしに太平洋側は勿論、浦賀水道が見渡せます。また現在も漁業が盛んで、松輪で水揚げされるサバは「松輪サバ」と呼ばれ、ブランドにもなっています。

閏八月五日
 今日は大悪日のよし、四ツ前ニ昼飯を仕舞、夫より七ツ半時迄湯茶・莨迄食せず、
一、昼九ツ時より百万返いたし候、
一、林ニ而夜ニ入神送のよし、仕立や申参り、
一、盆中より引続き百万返毎夜いたし候、

「神送り」とは疫神送りのことと思われ、御霊会、祇園祭の際にも触れましたが、病気を広める疫神を依代に移して燃やしたり、川や海に流すことで集落から送り出し、流行病の終息を祈るものです。

閏八月六日
一、三ヶ浦より使参り、明日門あけいたし候よし申参り、餅出し帰り候、尤、使人仁平殿忰のよし、

やっと病人の出た家も門を開け、人々の心に傷跡を残しながらも、三浦郡での文久二年の流行は収束したようです。

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「三浦正八幡宮」 ~神奈川県横須賀市武

太田和は領主から鎌倉鶴岡八幡宮に寄進され、社領であった時期がありました。その縁もあって当地と鎌倉とは結びつきが強く、集落に八幡宮も勧進されています。コレラ流行が下火となった文久二年十月に名主浅葉仁右衛門、つまり浅葉本家、仁三郎の兄の多額の喜捨により新社殿に建て替えられ、現在に至っています。

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「疫神社 三浦正八幡宮」 ~神奈川県横須賀市武

本殿の傍らにはまだ新しい疫神社があります。神社名標の建立が平成十九年とありました。新編相模風土記稿によると、かっては末社として山王社を持つとありますから、ある意味再建されたことになるのでしょうか。

文久二年には幸いにして、仁三郎の住む大和田にコレラ患者は出なかったようですが、浦賀や葉山など周辺の村々の惨状は、恵まれた境遇と思われる浅葉本家、そして浜浅葉家にも大きな影響を与えたのでした。さらにこの後のご維新の乱世を経て、浅葉家は往時の栄華を失っていきます。今では太和田に、直接浅葉家を偲ぶことのできるものは、屋敷墓のほかに残っていません。

それにしても文久二年に三浦へコレラが持ち込まれたのは、どのような道筋を辿ってのことでしょうか。七月二十四日に藤沢の流行の記載と同時に、浦賀での3人の患者発生が記録されています。考えられるのは、藤沢、鎌倉からの陸路、各地からの廻船の乗組員を介した浦賀侵入、前述の押込船を介した江戸からの海路の3ルートになります。被害が大きかった仁三郎の妻の実家があった三ヶ浦、現在の葉山港のあたりは鎌倉にも近く、藤沢、鎌倉からの陸路、もしくは通船を介してという可能性が高いでしょう。

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「海南神社」 ~神奈川県三浦市三﨑

三﨑の鎮守は海南神社という神社です。祭神は藤原資盈(すがわらのすけみつ)で、大宰府左遷の上、謀反を起こして処刑された藤原広嗣の子孫にあたります。藤原資盈自身も皇位争いに巻き込まれ筑紫に左遷される途中、暴風雨に巻き込まれて三﨑に流れ着き、そのまま当地に住み着いて、没後に祭神として祀られたと縁起にあります。都から九州に向かっていたところ遭難して、三﨑に漂着したとすると随分と流されたものですが、それはさておき。
海南神社、古くから武運長久、航海安全、大漁祈願ばかりでなく、素戔嗚尊もまた祭神とし、さらに境内に疱瘡神社を持つことから、疫病除けの御利益も期待されてきました。祭神に素戔嗚尊(牛頭天王?)が加えられたのは江戸時代のコレラ流行の頃と伝えられ、現在も六月に疫病除けのお祭りとして「八雲祭」、「お天王さん」が催されます。

「太平年表録」に「三﨑・浦賀死失多し」とあり、浜浅葉日記にも七月二十九日に「三﨑ニ而も三四人」とありますが、三﨑でのコレラ流行を詳しく記述した記録を見つけることができません。しかし海南神社に疫病退散の御利益が見られるとおり、安政・文久のコレラ騒動に限らずとも、当地が疫病の猛威にさらされた過去があったことが伺われます。半島の先端であり陸路的には不便という地理的特徴、一方で江戸の魚市場への押送船で賑わった町ということから、江戸からの海路を介した可能性も十分に考えられます。

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「金田港」 ~神奈川県三浦市南下浦町金田

浜浅葉日記では、三﨑・大津・松輪・金田で流行しているとの記述があります。このいずれも漁港を持ち、江戸の魚市場へ鮮魚を納めていました。江戸時代後期には、魚市場、問屋は日本橋にありました。元々あった四組問屋といわれる組織から、延宝2年(1674)に分離独立する形で新肴場問屋ができ、鮮魚流通を得意としていました。鮮魚としての価値を高めるためには、鮮度と美観が尊重されます。三﨑・大津・松輪はこの新肴場の附浦、仕入漁港となっていました。そしてこれらの漁港は、押送船(おしょくりぶね)という鮮魚運搬用の速度の出る船を所有していたのです。押送船は帆だけでなく、人力を要する艪も併用して速度を得ていました。

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「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」 ~葛飾北斎

良く知られたこの浮世絵には、三艘の押送船が描かれています。波にも玩ばれる船内には片舷に四人ずつ、計八人の漕手が並び、舳先には船頭と思しき人影が見えます。またこの他にも舵取りも必要でしょう。つまり押送船一艘を運航するには、最低でも十人必要だったわけで、押送船を持つ湊にはこうした水主が常駐することになります。文化六年には松輪に五艘、長井に八艘、三﨑に至ってはなんと三十三艘もの押送船を保有していたとされますから、三百人近くの水主がいたことになります。
このような状況から、人の動きがダイナミックであったことが想像できます。そして海産物そのものも、コレラ菌に汚染されることで、感染を媒介する可能性もあります。

それでは三浦郡におけるもうひとつの流行の中心地であった浦賀には、コレラはどうやってもたらされたのでしょうか。もちろん浦賀にも漁港機能がありましたが、やはり大きいのは廻船の寄港地としての存在でした。次回はもうひとつの海を介した感染拡大ルートを、残されている史料から探ってみましょう。


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