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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №70 [文芸美術の森]

           歌川広重≪名所江戸百景≫シリーズ
            美術ジャーナリスト  斎藤陽一
         第21回 「浅草田圃酉の町詣」

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≪鷲神社の酉の市≫

 広重の「名所江戸百景」シリーズ、前回は、品川の妓楼を舞台に描いた「月の岬」を紹介しましたが、今回は、吉原遊郭を主題にした「浅草田圃酉の町詣」を取り上げます。
 とは言え、この絵には人間は誰も描かれていない。一匹の白猫だけが格子窓から外を眺めている・・・

 ここは吉原の妓楼の座敷。遊女の部屋から西の方向を見た図です。遠くには既に白い雪をかぶった富士山が黄昏の光に浮かんでいる。季節は11月の夕暮れ時。

 眼を凝らすと、白い猫が眺めている先の田圃道には、大勢の人たちが列をなして歩いています。(下図参照)
その左奥の方向には「鷲(おおとり)神社」があり、そこではちょうど今、「酉の市」(とりのいち)が開かれているのです。
 左の屏風の下あたりに、何本かの「熊手の簪」(くまでのかんざし)が描かれている。これは「酉の市」を暗示しています。もしかすると、この部屋の遊女は客を誘って酉の市に出かけ、今、帰って来たところなのかも知れない。

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70-3.jpg 鷲神社のご本尊は鷲に乗ったお釈迦様。そこで、「鷲」は風を切って前進するとか、鷲づかみにするという意味から、出世とか武運、開運の神として信仰されてきました。 
「とり」は「取り込み」に通じるということから、水商売関係者にも人気が高かったと言います。
 また、その昔、日本武尊(やまとたける)が社の松の木に武具である「熊手」を掛けて戦勝の御礼参りをしたという故事にちなみ、縁起物として「熊手」が売られてきました。「熊手」は「福を取り込む」「福をかき集める」にも通じるので、現在にいたるまで、酉の市で売られる人気グッズです。

≪ここは遊女の部屋≫

70-4.jpg 絵の左に立てられている屏風の裏模様や、窓の下の壁紙の模様に注目すると、そこには「雀の文様」が描かれています。
 おそらくこれは、当時使われていた「吉原雀」(よしわらすずめ)という言葉を暗示するものでしょう。
 「吉原雀」とは本来は葦(よし)の生い茂る野原で鳴いている小鳥「よしきり」のことを言いますが、吉原では遊郭を流す「冷やかしの客」のことを「吉原雀」と言うようになりました。

 また、出窓に置かれた湯呑み茶碗と手ぬぐい、それに熊手簪のすぐ上の畳に置かれた紙(「御事紙:おことがみ」)、これらはこの部屋の遊女の持ち物です。とすれば、ここはまさに「吉原の遊女の部屋」なのです。
 さらに想像をたくましうすれば、窓辺で外を眺めている「白猫」は、白い肌を持った遊女の姿を暗示するもの、と見ることも出来ます。

≪暗示の美学が・・・≫

 これまで紹介した絵でもたびたび指摘したように、この絵には、日本美術の重要な特質である「暗示の美学」が働いています。それは、主要モチーフを直接描かずに、そのことを連想させるような事物を描くことによって、物語や状況を暗示させるという美意識です。この絵では、遊女の姿を直接描かずに「白い猫」に象徴させ、さまざまなものによって「遊女の部屋」を、さらには「酉の市」を暗示しているのです。
 それにしても、この一枚はあまりにも暗示に満ちていますね。

 この絵が描かれた年は、安政4年(1857年)11月と推定されています。なぜ、それが分かるのかというと、絵の欄外に押された「改印:あらためいん」すなわち事前検閲の印がその時期に使われたものだからです。(下図参照)

70-5.jpg 既にこの15年ほど前の「天保の改革」では遊女の姿を直接絵に描くことが禁じられていました。
さらにその後、ペリー来航、安政大地震と続く中、幕府の取り締まりが一層強化され、出版物の統制は厳しくなっていました。
版元や広重は、万一にも発禁や処分を受けないように考えて、このような暗示に満ちた画面にしたということも推測できるでしょう。
 次回は、広重は「鳥の目視点」で描いた「深川洲崎十万坪」(第108景)を取り上げます。


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