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雑記帳2021-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2021-11-15
◆北鎌倉の古刹。浄智寺と円覚寺を訪ねました。

鎌倉時代、幕府が鎌倉に招へいした臨済宗の寺は建長寺を初め五山があります。そのうち、第2、第4にあたる円覚寺と浄智寺を巡りました。
円覚寺は日本で最初の禅寺、浄智寺には鎌倉以外では見られない仏像があることで知られています。

JR横須賀線の北鎌倉駅に降り立てば、その前を通るのは鎌倉街道。浄智寺はすぐ近くです。
浄智寺は鎌倉幕府第5代執権北条時頼の三男で、執権になることもなく亡くなった北条宗政の菩提を弔うために、弘安6年(1283)に創建されました。最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も18寺院に達するなどの隆盛を見せました。現在は創建当時の建物は残っていませんが、山間の古刹らしい佇まいは鎌倉後山4位の寺格だったことを偲ばせます。

参道入口には鎌倉10井の一つ、「甘露の池」があります。池に渡す太鼓橋は苔を守るため通行禁止になっています。

池のすぐ奥にある総門は、質素な棟門形式の、16世紀の城郭建築です。円覚寺開山の無学祖元の手になる「寶所在近(ほうしょざいきん)」の額がかかっています。寶所在近とは「大切なものは遠くではなく近くにある」という意味で、転じて「仏を信じ修行を積めば、心の平穏が得られる」という仏の教えにつながっているそうです。

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「寶所在近」の額のかかる総門

鐘楼門は江戸時代末期の門の様式を踏襲して平成19年(2007)に再建されたものです。建築様式は和洋、唐様、大仏様が混在していますが、全体の雰囲気は建築当時の様式を残しています。

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鐘楼門

浄智寺の本堂、曇華殿(どんげでん)は、3000年に一度花を咲かせるという珍しい「優曇華(うどんげ)」の花に由来した名前は、極めて珍しい仏に巡り合える建物の意味で名づけられたとか。本尊の室町末期の木像3世仏は神奈川県の重要文化財になっています。阿弥陀、釈迦、弥勒の3体の各如来はそれぞれ、過去、現在、未来を司る仏とされています。

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優曇華

衣の裾を台座に長くたらした姿は「法衣垂下」様式と呼ばれ、鎌倉仏だけにみられる特徴です。奈良・平安の仏教と違って、鎌倉仏教は東日本、武士を中心としたものであり、様式も関東だけに見られるものなのです。

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「法衣垂下」様式の阿弥陀、釈迦、弥勒3体の如来像

殆どの建物が建築当初の様式を残しながらも最近になって建てかええられた中で、大正13年建築という茅葺の書院は、浄智寺のなかでは一番古い建物です。

書院 のコピー.jpg
写真では茅葺の趣が十分に撮れず残念。
浄智寺境内にはヤグラと呼ばれる、鎌倉独特の墓所がいくつも見られます。
ヤグラは、鎌倉の周辺で、鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られた横穴式の納骨窟または供養堂で、市内では今も3000基以上が確認されているそうです。風化して苔むし、ただの洞穴のように見えるヤグラも、建立当時は内装も豪華で、火葬骨のほか多くの副葬品が収められていました。。

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穴の奥に観音像が見えるヤグラ

鎌倉と聞けば「いざ鎌倉」を思い出すのは謡曲「鉢の木」のせいです。その名にちなんだ「鉢の木」でお昼を頂きました。

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円覚寺は正式には端鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)。臨済宗円覚寺派の大本山です。
弘安5年(1282)、時の執権・北条時宗が、宋から招いた無学祖元を開祖として開かれた古刹です。開基である時宗は18歳で執権職につき、無学祖元の説く禅宗に深く帰依していました。その時宗が国家の鎮護を祈り、蒙古襲来の文永・弘安の疫の殉死者を弔うために発眼したと言われます。

北鎌倉駅のホームはそのまま円覚寺、境内の中を横須賀線が走っています。
又、駅前を通る鎌倉街道をほんの少し南に入って今も残る旧鎌倉街道には、円覚寺の石垣が残されています。円覚寺は創建時、広大な敷地に18の塔頭を持つ、鎌倉屈指の大寺院でした。総門、山門、仏殿、方丈と、伽藍が一直線に配置されている伽藍配置は、宋様式独特のもので、境内全体が国の史跡に指定されています。

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境内を横須賀線の電車が走る
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旧鎌倉街道沿いに遺る円覚寺の石垣

ちなみに塔頭とは、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院のことです。

総門の手前にある横須賀線の踏切の南側の左右一対の池は白鷺池と呼ばれ、創建当時から残る数少ない遺構です。池の石垣そのものが天然記念物です。

総門は大寺とは思えないような簡素な門ですが、山門は二重門形式の壮大な門でした。
浄智寺の高麗門が和洋、唐様、大仏の折衷建築であったのに対し、ここは上層の長押など一部の和様を覗いて、徹底的に唐様で建てられています。

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山門

ちなみに山は寺を意味し、山門はこの世とあの世の境界です。
山門はは三門とも書き、三門は三解脱門とも呼ばれて、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒からの解脱を意味するのです。

一直線に並ぶ伽藍をちょっと外れて険しい石段を上って行くと、弁財天を祀る弁天堂があります。その横にある「洪鐘(おおがね)」は国宝。一見の価値があるといわれています。北条時宗の息子、鎌倉幕府第9代執権の北条貞時が寄進したもので、関東では最古級、高さは259m、重さは5トンもあるという、大鐘です。「おおがね」に「洪鐘」の字をあてるのはここだけだそうです。

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国宝の洪鐘

円覚寺の本尊が祀られている仏殿は関東大震災で倒壊した後、昭和39年(1964)に再建されました。外壁に立湧欄間(たてわきらんま)という、格式の高い、縁起の良い文様がほどこされています。
本尊は宝冠釈迦如来。釈迦如来は本来解脱した存在なので、宝冠のような装飾品はつけていないのですが、そうした通形の釈迦如来像とは異なり、髪も螺髪ではなく頭上で大きく結び、宝冠や髪飾りをつけています。
釈迦が冠や飾りを身に着けているのはまだ解脱していない姿です。解脱しようと精進修行する釈迦にみずからを重ねる禅宗の考え方は、700年前の中国で最先端の仏教でした。そして、鎌倉幕府が招へいした無学祖元ら宋の高僧は直接鎌倉に来たために、鎌倉仏教は京都や奈良へ伝わることはなかったのです。

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仏殿
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立涌欄間
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本尊は近づけば圧倒されるほどの大きさの仏さま

唐門は天保10年(1893)に再建されました。江戸時代、大名や幕府の要人を接待するために再建された格式の高い建造物です。

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唐門

唐門をくぐった先にある大方丈では国の辞意用文化財「五百羅漢図」が公開中でした。
大方丈は儀式や行事に用いられ、北側には心字池のある美しい庭園があります。

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大方丈の庭園

妙香池は創建当初からある放生池。江戸時代初期の絵図に基づいて、平成12年(2000)に復元されました。

更に奥に進むと、円覚寺の塔頭の一つである正続院の中に、神奈川県唯一の国宝建造物、舎利殿があります。正続院は無学祖元を祀る重要な塔頭。入母屋造、柿(こけら)葺きの舎利殿は、15世紀、室町時代の代表的な禅宗様建築です。立湧欄間はここにも見られました。通常は非公開。

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一見2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きの舎利殿

一番奥にあるのが、円覚寺の開基である北条時宗を祀る仏日庵です。時宗はこの場所で小さな庵を結び、禅の修行をしたと伝わっています。時宗の死後、弘安7年に、開基廟として創建されました。幾度もの戦火を潜り抜け、幕府をまとめあげた時宗は、学問の神、開運の神としてもあがめられたということです。

佛日庵 のコピー.jpg
仏日澱

円覚寺はじっくり回ればゆうに3時間はかかる大寺です。
見残した塔頭もあり、鎌倉仏教の特徴を示す数々の仏像なども、もう一度見たいと思わせます。鎌倉の紅葉は12月といいますから、観光客が増えるのはこれからかもしれませんね。



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