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医史跡を巡る旅 №99 [雑木林の四季]

安政五年コレラ狂騒曲~浜浅葉日記より、三浦郡前篇

    保健衛生監視員  小川 優

静岡県以東の安政五年のコレラ感染の広がりと各地での状況を、それぞれの地域に伝わる古文書を紐解き、さらにそこに登場する場所を実際に訪れながら綴っています。
当時の記録からは、人の流れと物流の主要経路である東海道に沿って感染が伝播していったこと、とくに参勤交代で大名がよく止まる宿場において患者が発生し、周辺地区にも広がっていったことなどがわかりました。ところが今回取り上げる三浦郡、特に浦賀は東海道からは外れているにもかかわらず、無視できない感染集団が発生しています。「太平年表録」を再び引用すると「其外三浦郡場所ニより戸を閉て流邪を凌ぐといふ、尤三﨑・浦賀死失多し」とあります。今までは主に陸路に注目してきましたが、海路も感染拡大に関わっていたかを検証してみます。

東海道は藤沢宿を過ぎると内陸部を北東に進み、戸塚宿に至ります。一方海岸沿いには鎌倉郡を経て三浦郡に至り、三浦半島の先端には天然の良港である三﨑があります。三﨑の東側に隣接し、同じく良港であった浦賀が、幕末には流通拠点および軍事拠点として機能するのに対して、三﨑は今も昔も漁業拠点でした。主に釣りで得た新鮮な魚を、押込船という専用の運搬船で迅速に江戸に運ぶことで、ブランド化していたようです。

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「海防陣屋跡」 ~神奈川県三浦市上宮田

地政学的には幕府としても、江戸を守るうえでの海上防護の重要性は認識しており、東京湾沿岸は勿論、三浦半島から湘南にかけてを天領、旗本領で固めました。特に外国船が頻繁に訪れるようになってからは陣屋を設けて、沿岸防備と地域統治を有力藩に委ねるようになります。最初は彦根藩がその任に当たりますが、嘉永六年(1853)に長州萩藩、安政五年(1858)に熊本藩、さらに文久三年(1863)には佐倉藩へと交代しています。前線司令部、というよりGHQとして、現在の京急の三浦海岸駅近く、今は南下浦市民センターになっている場所に海防陣屋をおきました。

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「海防陣屋跡碑」 ~神奈川県三浦市南下浦町上宮田

海防陣屋は地域の統治も行い、奉行以下藩士が赴任しました。長州萩藩の時には維新後に活躍することとなる、若かりし頃の伊藤博文、木戸孝允もその中に含まれていました。萩藩は安政五年六月に兵庫警備に転じることとなり、翌年一月に熊本藩に引き継ぎます。安政五年八月以降のコレラ流行時はまだ萩藩が、そして再流行の文久二年には熊本藩が任じられていたことになります。

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「若宮神社」 ~神奈川県三浦市初声町下宮田

相模国鎌倉郡小塚村「御用留」では、「当節悪病流行いたし既ニ三浦郡村々ニおゐて者諸所相煩候もの茂有之由之旨、下宮田村於若宮社、明廿三日ゟ御祈禱執行之令沙汰」とあり、陣屋が郷社である若宮社において、三日間の祈祷を行わせたことがわかります。
若宮神社、御祭神は大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)で、仁徳天皇になります。
三浦郡の具体的なコレラ流行記録としては、大和田村の百姓であった浅葉仁三郎の「浜浅葉日記」があります。大和田、現在の表記で太和田は横須賀市の西部、小田和川沿いの谷戸に集落が点在する細長い一帯です。浦賀や三﨑までは徒歩で日帰りの範囲、鎌倉までは船を使って往復二日の距離でした。浅葉家は代々名主を勤める家柄で、仁三郎は分家として海側に独立したので通称「浜浅葉家」。十分な田畑と小作人の分与を受けての独立でしたから、農民とはいえかなり裕福であったことが伺われます。浅葉家は馬のほか二隻の船を持っており、鎌倉に用事で出向くときや、大山詣でには船を使っています。仁三郎の「浜浅葉日記」には、農作業の内容や天候、雇人の動向や家族の健康状態、村のつきあいから耳にした世間話まで細かく記録されており、幕末の農民の暮らし向きを知る良い史料となっています。
安政五年のコレラ騒ぎについては、次のような記載から始まります。

八月十六日 戌午 北気ニ而陰、少々時雨、後ニは息、
一、今日は社日ニ而休、女とも大豆まき、
一、地神様へ御参りニ本家へ行、尤、植木屋同道ニ而行、艮刻、
一、本住寺ニ而組より合のよし申参り、与市殿ニ頼遣し候、尤、はやり病流行ニ付、大しめ・小しめとも引候よしの右之入用与市殿ニ頼遣し候、
出弐十四文 しめ引入用
一、本家より小しめ持参り候、尤、壱人前弐十五文ツゝのよし、
出百文 朱呂皮代  
~相州三浦郡大田和村浅葉家文書 第3集 浜浅葉日記3

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「本住寺」 ~神奈川県横須賀市太田和

浅葉仁三郎ら村の組の面々が、はやり病対策を話し合うために集まった太田和の本住寺。仁三郎は与一という者に、代わりに出席してもらっています。本住寺のご本尊、日蓮上人坐像は室町後期のもの、途中で日蓮宗に改宗したと伝えられますから、それ以前から寺はあったことになり古くから続く寺院です。

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「自衛隊施設」 ~神奈川県横須賀市御幸浜

浜浅葉家も本住寺の近くにあったと思われますが、現在海側は自衛隊関係の施設が占めていて、当時の名残はありません。

さて、本文に戻ります。ここで言う「はやり病」とは、コレラのことと考えられます。コレラ除けのための注連縄の代金について記録しています。続いて二十日には「病気流行のよしニ而念仏致し候」とあり、当番に当たっていたために講の人々を集め、おはぎをふるまっています。おはぎは当時としては御馳走だったのでしょう。本家と菩提寺、日記中では武之寺と書かれている東漸寺にも届けています。

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「東漸寺」 ~神奈川県横須賀市武

東漸寺はこの地が三浦と呼ばれることとなった三浦氏の一族、三浦義季が平安末期に開いたとされます。浅葉本家、浜浅葉家共に東漸寺が菩提寺でした。浜浅葉日記には、武之寺として頻繁に出てきます。

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「念仏行者願海の墓 東漸寺」 ~神奈川県横須賀市武 東禅寺

東漸寺には念仏行者願海の墓があります。三浦半島に念仏を広めたといわれており、浅葉本家の近くの扇子山に庵を構えて修行、遊行を行いました。浅葉本家があったあたりに現在も専養院という無住の寺があり、境内には願海の念仏塔があります。

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「専養院」 ~神奈川県横須賀市武

本堂は失われ、かつての面影はありません。日記中「扇子山」のほかに「専養院留主」という表現もあり、これも願海のことでしょうか。仁三郎は度々願海のもとを訪れ、また願海も浜浅葉家を訪れています。仁三郎は、大変信仰心篤い人間であったようです。

また同じ日には「当節病気流行ニ付、御役所より薬法御触出しのよし定使ニ而申参り候」とも書かれています。その薬法とは以下の通りです。

案法
一、薄荷葉       一、丁子
一、桂枝        一、カミルレ 又カミレとも言
右等分ニして心悪しき時呑べし、
 又
一、葛根湯へ丁子・カミレを加へ、右当節常ニ吞もよし、手足冷候時はからしはつぱふ用てよし、
右之通りの御触相廻り申候、

藤沢宿の時に取り上げた鎌倉郡小塚村の「御用留」に記された治療法に比べると、かなり簡単な処方になります。また「御役所」とは陣屋のことですが、萩藩は陣屋に藩医数名を配していて、藩士ばかりでなく住民にも治療を施し、また種痘も実施したとのことです。従ってこの処方も、幕府が各地に触れたものではなく、陣屋の萩藩藩医によるものかと思われます。

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「藤澤山無量光院清浄光寺(遊行寺)」 ~神奈川県藤沢市西富

同じころ、藤沢の通称遊行寺、清浄光寺に残された「藤沢山日鑑」の八月十八日の記載には「此節所々変病にて人数死事数多有之間、今日御祈祷有之也」とあり、十九日には「三浦講中四十人程御十念に上る、各々十二銅つつ上る 此節所々変病流行に付、各々御十念に上る也」とあります。コレラ除けのために、わざわざ三浦から藤沢の遊行寺まで、祈祷のために四十人もの一行で訪れていたことがわかります。

二十四日には周辺の流行が下火になったから、あるいは疫病除けの為か、浅葉仁三郎は船で大山詣でに二泊三日の行程で出かけています。

安政五年については、三浦郡の被害状況を具体的に記した記録をこれ以上見つけることができませんでした。一方、4年後の文久二年においては、麻疹の大流行の後にコレラが続き、浅葉仁三郎の知人も次々犠牲になります。
後篇では三浦で文久二年に何が起きたのか、追っていきたいと思います。


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