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道つづく №23 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

志ん生さんのきせる

         鈴木闊郎

 四十年前の話である。
 一九五七年十月、その年の春、わたしが入学した学校は創立七十五周年に当たっていて、学校祭が賑やかに行われた。
 入学してすぐ、落語研究会なるサークルに入会した。当時は略称ラクケンであり、現在のようにオチケンなどという臭い言い方はしていない。
 落研では、学校祭の演し物として、講堂で寄席を、地下の小講堂で若手の噺家とわれわれの、寸劇を企画した。
 若手とは、馬の助(故人)、馬太郎(現志ん馬)、朝太(現志ん朝)、小えん(現談志)、全生(現円楽)などである。
 ぶっつけ本番。わいわいがやがや、舞台へ立つ方がすっかり嬉しくなって、大騒ぎである。
 学生服のわたしが舞台上手から現れる。朝太が派手な色相の着物姿で、顔に濃い化粧をして下手から登場。オカマに見立てている。妖しげな素振りでわたしに近づき、矯態(しな)をつくる。わたしは用意した楊枝を下唇の下にぷらさげて、下手に引っ込む。すかさず、司会者が、「昼下がりの情事」と怒鳴る。当時人気を得た、クーパーとヘプバーン主演の映画である。
 何のことはない、(ぶるさがりのようじ)で酒落たつもりなのだ。
 こんな他愛ない寸劇らしきものを、とっかえひっかえやってお茶を濁した。
 さて、寄席である。
 講堂の入口にデカい看板を立てた。下手な字で、無論われわれの手作りである。
 志ん生、円生、三木助、小さん、馬の助。小さん以外全て故人になってしまったが、ものすごいメンバーではないか。これに文楽が一枚加われば、数年後、芸術祭質を総ナメにした、乗積落語会そのものである。
 師匠方を迎えにいく係を、くじ引きで決めた。私は志ん生師を希望したが、はずれ。引き当てたやつを、たばこの<いこい>ひと箱で買収し、いさんでその任にあたった。
 いつもは乗ったことのないタクシーを拾い、日暮里の志ん生宅まで迎えにいく。
 車の後の席に志ん生師とわたし、助手席にはお付きの今松(現円菊)。志ん生師はグレイの角袖、同じ色のソフト帽。ずっと目を閉じて終始無言。わたしもひとこともしゃべれない。なんたって、隣りに大志ん生が座っているのだから、身じろぎもできぬ。ところが、前の今松が実に騒々しい。あの看板の字は下手だの、割れたガラスを早く入れればいいのにだの、あのご婦人の着物の着かたはなってないだの、それこそ際限がない。
 講堂の前で車を降りるとき、「おまいはどうしてそうベラベラしゃべるんだろうね。だからいっまでたっても噺がうまくならねえんだ。この書生さんをごらんな、ひとこともしやべらねえ」。志ん生さんがこう言って、手提袋からきせるを一本だし、ご褒美だよ、とわたしにくれた。わたしは、口をとがらしている今松を尻目に、恭々しく頂戴した。
 その日、志ん生師は<鈴ふり>を熱演し、大講堂が揺れんばかりの大受けをした。
 そのきせるは、羅字の吸い口に近いところに、一升徳利と、志ん生、と焼き印されている。使い込まれ、飴色のそのきせるは、わたしにとって、何物にも替えがたい思い出である。
 一九七四年に生まれた末むすめに、わたしは、志生子、と命名した。

      平成九年二九九七) 二月
      月刊えくてぴあん「えくてぴあんエッセイ」より


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