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多摩のむかし道と伝説の旅 №71 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

             多摩のむかし道と伝説の旅 
                           -小江戸川越の旧跡を巡る-2

                    原田環爾

川越5.jpg 東照宮の女坂を下って境内の中を北へ進むとそのまま喜多院の境内となる。川越随一の寺院だけあってとにかく境内は広い。慈恵堂と呼ばれる大きな本堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、それに先の東照宮、更には門前の道路を挟んで日枝神社がある。また山門脇には有名な五百羅漢があり、慈恵堂の北側には江戸から移設された三代将軍家光公ゆかりの客殿、書院、乳母の春日局の間など旧江戸城の建築物が残されている。伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したという。歴史的には平安時代の天長7年(830)慈覚大師が創建し、阿弥陀如来を本尊として祀り無量寿寺と名付けた。その後鎌倉時代に兵火で炎上し、永仁4年(1296)尊海僧正が天台宗慈恵大師を勧請して再興、正安3年(1301)山号を星野山とした。しかし戦国時代の天文6年(1537)北条氏綱と上杉朝定が戦った折兵火で炎上。江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正が法統を継ぐと、慶長16年(1611)工事を行って仏蔵院北院を喜多院と改めた。寛永15年(1638)川越大火で山門を除いて悉く消失。三代将軍家光の指示で、江戸城紅葉山の別殿を移築し客殿、書院、庫裡に当てた。このため家光誕生の間や春日局の間(化粧の間)がここに存することになった。その後数年の間に慈恵堂、多宝塔、川越6.jpg慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社が再建された。五百羅漢は538体からなる。志誠という僧侶の発願で天明2年(1782)~文政8年(1825)にかけて造立された。羅漢とは釈迦の弟子、即ち修行僧のことで、釈迦入滅後弟子たちが何度も会議を開き、お釈迦様から聞いた教えをまとめたものが「お経」という形になったという。喜多院の伝説に深夜当山の羅漢さんの頭を触ると、一体だけ温かく感じる羅漢さんがいて、昼間その羅漢を見ると、自分や身内に似ているという。喜多院の山門を出ると車道を隔ててこじんまりとした日枝神社がある。慈覚大師が 無量寿寺を中興した折に、近江国坂本の日吉社を勧請したものという。
  車道を北に進むと県道15号線に出る。これを渡って浮島稲荷神社へ向かう。ちなみに県道15号線を西へ100mばかり行くと成田山別院がり、その横に、古くからある団子屋「津ヶ原」がある。かつてはここに2軒の団子屋が軒を並べ競争したことから「喧嘩だんご」などと呼ばれたという。県道を渡って集落の道に入ると、すぐ南北に細長い境内の浮島稲荷神社に来る。境内は小さく、しかもその一角は浮島公園という児童公園にもなっている。境内中央に池がある。かつてこの辺りは湧水の出る沼沢地であったいい、そのことから浮島 という名があるのだろう。地元では「うきしま様」と呼ばれている。創建年代は不詳。言い伝えでは、大昔、星野山(現喜多院)にあったものを慈覚大師が喜多院を開いた時にここに移したとか、あるいは太田道灌の父道真が川越城を築城した際、城の守護神として祀ったとも伝えられる。この辺りはかつて「七つ釜」といって、湧水の湧き出る 穴が七つもあり、一面葦の生い茂る沼沢地で、そのため遠くから神社を眺めると、島の様に浮かんで見えたことから浮島神社と呼ばれるようになったという。
川越2-3.jpg 川越2-4.jpg川越城七不思議の中に浮島神社があった七つ釜の辺りに伝わる伝説が2つある。「片葉の葦」と「人身御供」と呼ばれる伝説である。
 「片葉の葦」伝説とはこんなものである。戦国時代のこと、川越城が敵に攻められ落城寸前になった折、城主の姫が乳母に連れられ城を脱出。七つ釜までやってきたが足を踏み外し釜の中へ落ちてしまった。必死にもがいてようやく川辺の葦を掴むことができた。しかし這い上がろうとすると掴んだ葦の葉がちぎれ、ついに力尽きて葦の葉を掴んだまま水中へ没してしまった。それ以来、七つ釜に生える葦の葉は 姫のうらみによって、すべて片葉になってしまったという。
 一方「人身御供」伝説とは次のようなものである。太田道真・道灌父子が川越城を築いた折、城の三方(北、東、西)は泥深い水田、南は七つ釜という底なし釜が七ヶ所もある湿地帯で、築城に必要な土塁がなかなかできなかった。ところがある夜、道真の夢枕に竜神が現れて曰く、「明朝一番早く汝のもとに参った者を我に差し出せばすみやかに成就する」と。道真は不審に思いつつも「承知しました。最初に参 った者を人身御供として差し出しましょう」と約束した。ところが翌朝、最初に現れたのはなんと最愛の娘の世禰姫(ヨネヒメ)であった。不思議なことに姫も同じ夢を見たという。しかしさすがの道真も竜神との約束を守れずにいると、姫はある夜、城の完成を祈りながら七つ釜の淵に身を投げてしまった。その後まもなく川越城は完成したという。
川越2-5.jpg 浮島稲荷を後に水道局の建屋を左に見て北へ向かうと丁字路にぶつかる。右に折れて100mも進んで再び北へ向かう小路に入る。程なく小さな四ツ辻に出る。この辺りは廓町(クルワマチ)といい、かつての川越城の縄張りの中になる。辻を左へ150mも進めば高台があり、それが富士見櫓跡である。城域内で最も高く天守閣の役割を担ったという。頂きには御嶽神社と浅間神社がある。またこの櫓の麓に田曲輪門跡の石碑が立っている。櫓は合戦時の物見台である。川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、 西南の隅に三層の富士見櫓があった。富士見櫓は城内一の高所として天守閣の代わりをつとめたという。櫓からはその名の通り富士山まで望めたことであろう。(つづく)

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