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論語 №131 [心の小径]

四一四 子のたまわく、教えありて類(るい)なし。

       法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「人は教育によって善とも悪ともなるもので、はじめから善人悪人の類別があるわけではない。」(参照-四三三)
四一五 子のたまわく、壇同じからざれは相(あい)為(ため)に謀(はか)らず。

 孔子様がおっしゃるよう、「根本主義が違っては相談にならぬ。」
 これだけでは意味がハッキリしないが皆川淇園(みながわきえん)の左の説明でだいたい見当がつきそうだ。

 「霊公(れいこう)兵を強くして以て威を立てんと欲し、夫子は道を修めて民に仁せんと欲す。これ道同じからざる者なり。それ道同じからざれば、すなわち各その趣を殊にす。彼の好む所のものは、われの悪(にく)む所のものなり。かれの重んずる所のものは、われの軽んずる所のものなり。それかれはわが悪(にく)み且(かつ)軽んずる所のものを以てす、しかるにわれこれが為に対(こた)え、これが為に謀(はか)る。これ諂(へつら)いにあらざれば、すなわち詐(いつわり)なり。親附を求めてその身を利せんことを欲する者のみ。君子の『その食を後にする』(四一三)の義にあらざるなり。これ故に夫子の対えずして行(あ)りしものは(三七七)、軍旅の事を知らざるにあらず、すなわち道の同じからざるを以ての故なり。」

四一六 子のたまわく、辞は達して己(や)む。

 「辞」は、「辞令」で外交文書だ、とする説もあるが、広く一般の言語文章と見る方がよろしい。「達せんのみ」とよむ人もある。それだと「達すればそれでよろしい」という意味が強くなる。

 孔子様がおっしゃるよう、「言語文章は意味の通ずることが肝心じゃ。」

 中国は元来が言語文章の国であり、また孔子様の門人には、子貢(しこう)をはじめ口達者、文章上手が多かっただろうから、ついむやみと美辞麗句をつらねてかえって意味が通らなくなることなどもありそうだ。そこで孔子様がこう言って引きしめられたのだ。しかし「達する」というのは、「意味さえわかれば」というのではなく、意味が十分に通ずること、すなわち、「達意」である。それ故、ただ短ければよいというのではない。『論語』と『孟子』とをならべて見ると、孔子様は口数が少なく、孟子はおしゃべりなのが、実に好対照であって、しかも双方ともに名文である。そして『論語』は短文だけれどもすこぶるふくみが多く、かみしめればかみしめるほど味が出てくることは、今まで読み進んだところでもよくわかるのであって、これが本当の「辞は達して巳む」もの、『孟子』の「これでもか、これでもか」とたたみかけるのよりかえって効果的だともいえる。「歌よみはへたこそよけれあめつちが動き出してはたまるものかは」という狂歌があるが、孔子様はけっして、言語文章は「へたこぞよけれ」と言われたのではない。本当に上手な言語を語り、文章を書けと言われるのだ。新生日本の最大問題の一つは国字・国語問題であって、漢字制限・文章平易化の持論いよいよ実現の時節到来と喜んでいるが、この際くれぐれも希望するのは、「わかりさえすれば」という誤解のないことだ。本文を「達せんのみ」とよまずに「達してやむ」とよんだのも、多少はその意味だが、「達し」たかしら。
『新訳論語』 講談社学術文庫



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