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現代の生老病死 №6 [心の小径]

現代の生老病死~引き延ばされる老・病・死と操作される生 
 
      立川市・光西寺  寿台順誠
 
 2.現代の老

(4)認知症と無我-老いと仏教

 認知症と無我という問題、つまり認知症の人には変わらぬ自我など無いとすれば、仏教の「無我」というのは認知症のようなものなのか、という問題を考えるために、先ずは下の図をご覧ください。

寿台4.jpg

 この図表は長谷川和夫『よくわかる認知症の教科書』(朝日新聞出版,2013,135頁)という本のものですが、これについてはよく、先ほど何を食べたかを忘れるのは通常の物忘れだが、食事をしたこと自体を忘れてしまうのは認知症である、という例で説明されますね。
 それで仏教の無我について考えてみたいのですが、これについては天親菩薩(世親)の『浄土論』に、「世尊我一心、帰命尽十方、無擬光如来、願生安楽国」(世尊、われ一心に尽十方無擬光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。『真宗聖典』135頁、『浄土真宗聖典七祖篇一一註釈版一一』本願寺出版社,1996,29頁)とあるのに対して、曇鸞が『浄土論註』で次のような註釈を加えていることが注目されます。

 間ひていはく、仏法のなかには我なし。このなかになにをもってか我と称する。答へていはく、「我」といふに三の根本あり。一にはこれ邪見語、二にはこれ自大語、三にはこれ流布語なり。いま「我」といふは、天親菩薩の自指の言にして、流布語を用ゐる。邪見と自大とにはあらず。(前掲『浄土真宗聖典七祖篇』52頁)

 この中の「邪見」というのは誤った邪な見解ということで、先ほど言ったような永遠に変わらぬ自我が存在すると考えること、「自大」というのは、「我が、我が」と主張するような尊大な我という意味だと考えればよいでしようね。が、ここで天親が「我」と言っているのは、そういう意味ではなくて、単に「流布語」として用いているにすぎない、と曇鷲は解釈している訳です。これは仮に「我」としか言いようがないものですね。仏教は無我の教えだから「我」(私)という言葉を一切使うな、などという極端な言い方に出会ったこともありますが、しかしもし流布語という意味での「我」(私)という言葉も使えなければ、会話自体が成立しませんよね。例えば、「〇〇を食べたい」と言ってみても、「私は」と言えなければ、場合によっては「誰が?」ということが分からなくなってしまいますね。流布語としての「我」というのは、仮に言っているだけで実は「五蘊」に過ぎないものですから、時が来たら消えてなくなるような「我」なのです。そのくらいの「我」は立てておかないと仕方がないという話ですよ。
 このように考えてくると、認知症と無我とを一緒にするのはやはり間違っているでしょうね。流布語としてであれば「我」は認めるというのは、自分がやってきたことについての記憶の連続性くらいはあるということではないでしょうか。が、それが永久不滅に変わらない「我」があるとか、「我が、我が」という自大とかになってしまうと、仏教の無我には反するということだと思います。
 少し話が横道にそれたかもしれませんが、そのついでにもう一つ「老いと仏教」について言っておきたいことがあります。それは、「諸行無常」ということの在り様に関してです。「生者必滅」「盛者必衰」「会者定離」という言葉は、「諸行無常」の類語であるとか、例示であるとかと説明されていると思います。が、「生者必滅」というのはまさに「死苦」を示すものだと受け取ることが出来ますが、しかし「老苦」や「病苦」はそれよりも「盛者必衰」という言葉で表す方がよいのではないかと思うのです。それはどういうことかと言うと、かつて当たり前に出来ていたことが出来なくなっちゃう、かつて人の手など借りなくても易々と出来たことが段々出来なくなるというのは、本当にもどかしいことですよね。「盛者必衰」というのは、そのような悲しみを表しているような気がします。そういう意味で、「死苦」とは違う意味での「老若」「病苦」をそのように押さえたらどうかと考えているのです。
 認知症については他にいろいろ言いたいこともありますが、時間の関係でカットします。いずれにしても、超高齢社会においては、「死にたい、死にたい」と言いながら延々と生きざるを得ない訳です。「ピンピンコロリ」(PPK)という言葉がありますね。「ぴんころ地蔵」というのが長野県の佐久にあり、数年前に見に行きました。そこには「ぴんころ食」という塩分を控えた食事もあります。長野県はそうしたPPK運動を推進して、日本一の長寿県になりましたね。それで、この「ピンピンコロリ」というのが、現代という時代に特有の願望になっていますが、でも実態はむしろ「ネンネンコロリ」(NNK)だと言われています。「ネンネン」というのは寝たきりになるということですが、この場合「コロリ」というのは適切な言い方ではないと思います。ですから、これは私の言葉ですが、「グズグズダラリ」(GGD)とでも言う方が実態に合っているのではないでしょうか。これこそまさしく「現代の老苦」だと思うのです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より



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