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雑記帳2021-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-11-1
◆熱海のMOA美術館では10月中、「琳派」展が開かれていました。

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本阿弥光悦、俵屋宗達に始まる様式が琳派と呼ばれるようになったのは、実は1960年以降のことです。それまでは尾形流、光悦流等と呼ばれていました。欧米で琳派愛高熱が高まり、彼らにとって発音しやすい「琳派」が定着して、日本に逆輸入されたのです。
その特徴は、平安以来の大和絵の彩色・技法の伝統を受け継ぎながら再生した独創性にあると言われます。

俵屋宗達が活躍したのは17世紀前半、徳川幕府草創期の京都です。政治的、経済的に圧倒的に優位に立つ江戸にたいして、京では伝統的な貴族文化が見直されていました。
宗達は「俵屋」という絵画工房を率いて、料紙装飾や扇絵に力を揮い、京の町衆に支持されました。宗達の描いた風神雷神はその後も琳派を代表するテーマになりました。
一方、光悦は、家康から土地を拝領して芸術村「光悦村」を築き、陶芸、漆、出版、茶の湯にも係わるマルチアーティストでした。

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琳派のテーマになった宗達の風鈴雷神図

大和絵の伝統を尊重した宗達にとって絵物語は重要な画題でした。宗達はそれを、大胆に省略したり敢えて主要人物を描かないなど意匠的な形態の作品にし、古典を新演出しました。また、彼の描く生き物は単純化され、親しみやすさや諧謔性があります。唐獅子は権力の誇示ではなくおどけていて、重量感のある白像は諧謔性と同時に目の鋭さが特徴です。墨の拡がりや滲みで描き出すたらし込みの技法は琳派のトレードマークになりました。

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宗達龍虎図
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宗達・源氏物語末摘花手習図
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宗達・軍系図

光悦は寛永の三筆と呼ばれる書家でした。その流麗な書は蒔絵に多く残されています。特徴はデフォルメと立体デザインにあるといわれています。蒔絵に大きく盛り上がった大胆な器形を用いたり、蓋と蓋裏の図柄がつながる、三次元的なしかけを作ったりしています。
下の「樵夫蒔絵硯箱」の、きこりが歩いている土橋はふたを開けると内側にも橋が続くように描かれています。きこりの脚には螺鈿が施され、誠に芸が細かいのにおどろかされます。

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光悦・樵夫蒔絵硯箱

宗達の誕生(1579年)からおよそ90年後に生まれたのが尾形光琳です。江戸では。室町時代の水墨画や狩野派が流行していたころのことです。華やかな意匠と奇抜な構成は宗達光悦に私淑したものと言われています。5歳年下の弟の乾山と共に、一つの時代を築きました。このころ、京ではパトロンが消失、兄弟は活動の場を江戸に移します。琳派は社会的、文化的な基盤を離れ、一つの伝統としてうけとめられていくのです。

光琳・乾山の生家は呉服商でした。没落後、光琳は本格的に絵師となり、乾山は窯を開いて陶器の制作を始めました。
光琳は、絵画では宗達風画風に魅かれ、蒔絵では光悦風を慕う気持ちが強いようです。模倣を通して光琳独自の明るい蒔絵の世界がうみだされました。
光琳風のデザイン「光琳模様」は18世紀前半、上方で大流行、5弁の花びらをひとまとまりに描いた「光琳梅」は多くの絵師に採り入れられました。

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伝光琳・秋草模様描絵小袖
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光琳・寿老人団扇
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光琳の蒔絵は印籠にもなった。

光琳が造形性を重視したのに対して、弟の乾山は絵と書が一体となった素朴な世界が特徴です。絵は技巧を否定、書は独学で無造作な書風です。
乾山焼きは懐石用の食器で人気があり、斬新で機知にとんでいました。和歌や漢詩の文学的要素を焼き物に展開しているのです。

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     乾山・色絵皿
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乾山・蒔絵染付梅花蓋物
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乾山・色絵十二か月歌絵皿
 

同時代に活躍した野々村仁清を忘れることはできません。
仁清は実用の器である茶碗を、具体的な文様で色鮮やかに飾り、鑑賞性を重視した作品を創りました。
伝統と先進性を兼ね備えた仁清焼きは、京文化にあこがれる大名に人気がありました。

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仁斎・色絵藤花文茶壷
     
18世紀半ばの京都では、円山応挙や伊藤若冲ら個性的な画家が活躍していました。
その後、18世紀末から19世紀初の江戸では、新たな琳派様式の流行が始まりました。代表的な画家は酒井抱一や弟子の鈴木其一がいます。
酒井抱一は、琳派画風の継承と新たな展開を打ち出して琳派を再興しました。奇しくも光琳から100年後にあたります。
抱一の、琳派の伝統的を意識しながら情趣や写実的な視点を採り入れた様式は江戸琳派と呼ばれます。一時は途絶えたかに見えた光琳様式は江戸の地で新たな息吹を得たのでした。

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抱一・藤蓮楓図図
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抱一・伊勢物語図
      
琳派は、権力とむすびついた儀礼や様式とは関係なく、趣味の世界に近いと言われます。諧謔性や意匠的な構成などの遊び心は、権力から遠い位置にいたために、形式や伝統に縛られず、革新的な仕事ができたからでした。
装飾性を追求した作家たちの作品はモダンで、正に現代のデザイナーのようでした。

MOA美術館は昭和57年の会館。創立者は、宗教家・画家・書家・建築家の岡田茂吉。
国宝の尾形光琳『紅白梅図屏風』や野々村仁清の「色絵藤花茶壷』など重要文化財67点を含め所蔵は約3000点。
黄金の茶室や能楽堂のほか、復元された光琳屋敷も見どころです。光琳が晩年、京都に住んだ邸でした。併設された「茶の庭」は入口の唐門や「樵亭」と名付けられた茶室等、趣のある庭になっています。

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館内から眼下に太平洋が見下ろせる
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黄金の茶室
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茶の庭への門
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茶の庭の一白庵でお茶を一服。

締めは『琳派御前」で。肴の皿は乾山好みでした。

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 琳派御膳

◆『バルタンの呟き』を連載中だった飯島敏宏さんが亡くなりました。。
 
映画『ウルトラマン』の監督、飯島敏宏さんに初めてお会いしたのは、、映画「ホームカミング」の試写会でした。『知の木々舎』の顧問、鈴木茂夫さんがテレビ草創期に、TBSでご一緒だったのがご縁でした。TVドラマ「金曜日の妻たち」で一大ブームをまきおこしたあと、この映画も舞台は同じ東京の郊外。高度成長期の開発頭初、ちょっとお洒落で、若い家族の賑やかな声にあふれていた町が、30年の時を経て、高齢者ばかりが目立つようになった、(それは日本の縮図でもありました。)自身の住む町の変わり様を愛情をこめて見つめた作品たちでした。

原稿をいただくようになって、ウルトラマンの生まれた光の国が実は沖縄であったことを知りました。バルタン星人はそのウルトラマンの敵役ですが、飯島さんはそのバルタン星人を悲哀のある、どこか憎めない存在ととらえていました。『ウルトラマン50年』のあとを受けて連載した『バルタンの呟き』は100回を越える連載になりました。どれもが日常の些細な事柄を追いながら平和への思いにあふれていました。戦争を体験した世代が次々に亡くなって行く中で、命ある限り平和の大切さを伝えることを使命としておられたようでした。ご冥福をお祈りします。合掌。



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