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道つづく №22 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

あの旗をください 2
            鈴木闊郎 

 もうひとつの三田さんの原体験は二十二歳で特攻隊員になったことではなかったか。
 何度も死線を越えた。先輩、同僚、後輩が次々に死んでいった。そして敗戦。
 三田さんにとって、それからの人生は余命だったのではないか。
 これ以後、三田さんの情熱が噴出する ー。
 多摩川への情熱、民俗学への情熱、福祉への情熱、そして立川飛行場への情熱、もちろん生花業への情熱。
 文字通り八面六皆の活躍が今も続く。
 三田さんは言う。今までいろいろなことをしてきたけれど、次の三つのことが印象に残る。
 多摩川で日本最初の鮎の放流試験をした石川千代松博士の記念碑「若鮎の像」を青梅市万年橋下の試験地に建立したこと。
 一九七七年十一月、立川基地返還調印式に招かれた際、降下された星条旗を米空軍の代表者であった横田基地司令官S・R・スチーブンソン大佐に直接申し出てその旗をもらったこと。
 多年にわたって収集してきた多摩川の漁具を立川市に寄贈、それらが立川市有形民俗重要文化財の指定を受けたこと。
 二つが多摩川に関すること、そして立川飛行場に関すること。これは決して偶然とはいえぬ。三田さんのライフワークともいえることだからだ。
 降下されている星条旗を見上げながら三田さんは思った。
 あの旗こそ三十二年の間、荒廃した立川を、そして復興する立川を見守り続けてきた歴史の証人ではないか。このまま放っておけば必ず散逸してしまう。なんとかあの旗をもらうことはできないだろうか。次の瞬間、
 「司令官、あの旗をわたしにください」と申し入れたのだ。厳粛なセレモニーのさなか、余人のよく成し得ることではない。三田さんの、立川飛行場に対する想いがそうさせたのだ。まさに三田さんの真骨頂をしめすエピソードである。
 本年十月、駅ビルで「三田鶴吉コレクション他による立川の今昔展」開催の際、展示された風雨に耐えた星条旗がこれである。
 多摩川と民俗学への情熱は自らを生み育ててくれたふるさとへの憧憬、福祉への情熱は強烈な原体験を経た今、社会への還元の想い、と公式的に結びつけるのはたやすい。
 しかし三田さんにはなんの理由づけも要らぬ。ひたすら純粋に自らの信念を貫いているのだ。
 私は三田さんほど純真無垢なひとをしらない。少年の魂をしっかり持ち続けておられる
まれびとだと思う。
 株式会社三田花店は錦町の本店をはじめ、ウイル店、高島屋店と日に日に隆盛である。奥様の実子さん、功雄さん、光子さんの娘さんご夫妻を先頭に、全員が身を粉にして立ち働く姿が見られる。まさに三田家の和の結晶である。三田さんの生きざまをよくご家族が理解しているからにほかならぬ。養父光次郎(九十歳)さん、養母志ん(八十四歳)さんをはじめ四人のお孫さんと共に四世代が一つ屋根の下に起居していることからもうなずける。
 三田さんは三年前大病をした。
 現在はすっかり健康をとりもどしたけれど、このことが唯一の心配なのである。三田さんの身体はいまや三田さんだけのものではなくなっている。本日の出版祝賀会に出席した全員も三田さんのご健康とこれからのますますのご活躍を心の底から願ってやまないのであるから。
    昭和五十八年二九八三)十二月九日
      「三田鶴吉さんの出版祝賀会パンフレット」より

『道つづく』 ヤマス文房



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