SSブログ

多摩のむかし道と伝説の旅 №70 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                          多摩のむかし道と伝説の旅
                          -小江戸川越の旧跡を巡る-1
              原田環爾

 川越は小江戸と呼ばれる。それは古くから江戸との交流が盛んであったため、江戸文化の影響を強く受け、町全体が江戸の情緒を色濃く留めていることによる。天正18年(1590)江戸に入府した徳川家康は、まだ戦国冷めやらぬ不穏な北武蔵の守りを固めるため、北武蔵の最南端に位置する川越の初代藩主に、信頼のおける三河以来の譜代の家臣酒井重忠を配した。その後も代々譜代の家臣が藩主を勤めたが、川越藩政に最も大きな功績を残したのは第5代藩主で老中であった松平伊豆守信綱である。信綱は玉川上水・野火止用水の開削により不毛の野火止台地に水を引くことで新田開発を行い、石高を飛躍的に増大させた。また江戸と川越を結ぶ川越街道を整備し、更に新河岸川を開削して舟運の向上に努め江戸と川越との交易を盛んにした。このことが江戸文化の川越への流入を促し小江戸と呼ばれる素地が作り上げたと言える。世はこの優れた藩主を「知恵伊豆」と呼んで尊敬した。一方川越は太田道灌ゆかりの地としても知られる。道灌は15世紀後半の戦国初頭に扇谷上杉氏の家宰として活躍した武将である。江戸城を築城したことでよく知られているが、川越城も彼によって築城されたものだ。今回はそんな小江戸と道灌の旧跡を多く残す川越市内を巡る。
 西武新宿線本川越駅を出発し、中院、喜多院を経て川越城跡へ向かう。途中新河岸川を垣間見て、上杉と北条の激戦地という東明寺へ立ち寄った後、一番街の蔵通りに入り、川越のシンボル時の鐘を見て元の本川越駅に至るものとする。

川越1.jpg

川越2.jpg 本川越駅を出て駅ビルPePeの北側から中央通り(県道229号線)を渡って東照宮中院通りに入る。通町で旧川越街道と交差して西小仙波町に入ると前方左手にこんもりとした森が見に入る。やがて小仙波町に入ると通りはやや狭くなり、しっとりと落ち着いた住宅街の路に変貌する。程なくこじんまりとした四辻に来る。辻の東南の角地は雑草の繁る空地で、そこに沢山の古びた石塔石仏が立つ。その片隅に小さな由緒書があり、南院遺跡と記されている。明治2年の神仏分離令により廃仏毀釈で廃絶したという。
川越3.jpg 辻を右折し県立川越総合高校を左に見て南へ100mも進めば沿道右に天台宗別格本山中院が現れる。山門前の標石に「天台宗星野山中院」「日蓮上人傳法灌頂之寺」と刻まれている。境内の由緒書によれば、中院はかつては星野山無量寿寺仏地院と称した。中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺の中に北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多門院と称していた。中院は当初、現在の仙波東照宮の地にあったが、寛永10年(1633)東照宮建造の折に現在地に移されたという。喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力を持っていたという。墓苑には川越城主秋元候の家老太陽寺一族や島崎藤村の義母の墓などがある。
川越4.jpg 中院を後にして門前の元の通りを北へ向かう。先ほどの辻を越えると程なく徳川家康を祀る仙波東照宮の前に来る。東照宮は喜多院の寺域の南端に位置する。細い参道に入り、朱塗りの随身門をくぐる。但し随身は見当たらない。更に細長い参道を進み、寛永15年造立の石の鳥居をくぐると急階段があり、その上に葵の御紋がついた鉄柵門がある。拝殿、本殿はこの鉄柵の中にあるが、普段は閉鎖されているようだ。元和3年(1617)久能山の家康の遺骸を日光に移葬する折、喜多院に4日間逗留し供養したことから、寛永10年(1633)天海僧正がこの地に創建した。寛永15年(1638)川越大火で延焼したが同17年再建された。日光、久能山の東照宮とともに三大東照宮と言われている。(つづく)



nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。