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医史跡を巡る旅 №98 [雑木林の四季]

安政五年コレラ狂騒曲~藤沢宿と周辺の村々 其の弐

        保健衛生監視員  小川 優

茅ケ崎から辻堂に向かう東海道沿線の小和田バス停の近く、街道筋から少し入ったところに小さな地蔵堂があります。真ん中のお地蔵様の脇に、小さな百万遍供養塔があります。

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「代官町 百万遍供養塔」 ~神奈川県茅ケ崎市代官町

前回ご紹介した行谷の供養塔のように、碑面にコレラに関する記述はありませんが、建立が安政五年九月ですから当地にコレラが流行し、疫病鎮撫のために盛んに百万遍念仏講が執り行われていた時期に当たります。

安政五年九月に相州高座郡寄場一之宮村外弐拾七ヶ村が取りまとめ、幕府の関東御取締役に提出した「異病死失人書上帳」の控が残されています(神奈川県史 資料編10 近世7)。人的被害があった村を書き出します。

死失壱人 男 田端村
死失五人 内 男弐人、女三人 柳島村
死失三人 内 男壱人、女弐人 打戻村
死失弐人 男 下寺尾村
死失拾三人 内 男九人、女四人 大曲村
死失七人 内 男三人、女四人 芹沢村
死失壱人 男 小谷村
死失四人 内 男弐人、女弐人 一之宮村
「弐拾ヶ村之儀ハ異病死失人無御座候」と書き上げられている村々も記しておきます。
萩園村、平太夫新田、中島村、松尾村、今宿村、下町屋村、浜之郷村、西久保村、円蔵村、香川村、中瀬村、岡田村、獺郷村、大蔵村、宮原村、小動村、宮山村、倉見村、菖蒲沢村

疫学をかじった者としては、データがそろうとジョン・スノーばりに地図にプロットしたくなります。ジョン・スノーとは、イギリスの医師で1854年のロンドンにおけるコレラ流行の際、感染者の発生状況を地図に記して、発生原因が特定の井戸であることを解き明かし、疫学の創始者のひとりとされます。当地における流行が安政5年、つまり1858年ですから、ほぼ同じ時期といえます。

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「安政五年コレラ流行における高座郡での発生状況」 ~国土地理院地図を加工

死者の発生した村名にマーカーし、死者数をピンク色のシールでプロットしました。被害の大きかった大曲は、小出川の西岸にあります。また小出川が相模川に流れ込む地点に位置する柳島村では、前回取り上げた名主の記録「太平年表録」中の「扨我居村にも彼暴瀉人出来、暫時ニ死消するもの三四人」より少し多く、5人の死者が書上げられています。柳島には湊があり、廻船改めのある浦賀、相模川対岸の須賀とともに相模国で有数の水運物流拠点でした。とくに相模川を利用した河川水運と、海運との接続港としての役割が大きく、倉庫や荷役場のほか、乗組員である水主(かこ)達の宿もあって賑わっていたようです。

大曲、柳島以外の死者が発生した村落も、小出川流域に集中しています。時系列の記載はありませんから、この地域にコレラが持ち込まれたのがいつ、どこへなのかはわかりません。しかし感染の広がりからは、感染者のし尿が流れ込む、あるいは患者の糞便で汚れた衣服を洗浄するなどにより、水系がコレラ菌で汚染され、地域に流行が広がった可能性が考えられます。

それでは、この地域における一大人口密集地であり、かつ往来の拠点であった藤沢宿における感染状況はどうだったのでしょうか。
藤沢宿の天保14年(1843)における基本データ(東海道宿村大概帳)は、遊行寺坂のあたりから、小田急線の藤沢本町駅に至る約1.5キロメートルに、人口4,089人、軒数919軒、旅籠45軒であり、近隣の神奈川宿(人口5,793人)、小田原宿(同5,404人)に次ぐ規模を誇ります。大久保町と坂戸町に分かれていて、それぞれに本陣(後期には大久保町側の堀内本陣が無くなる)と問屋場(荷の取次場所)がありました。

急廻状を以得御意候、弥各々様御平穏御勤役被成御座珍重之御儀ニ奉存候、然者当節世間一統如何之悪病流行致候ニ付而者、藤沢宿大神楽師先祖ゟ伝来零場之獅子頭有之、右者元来悪魔払ニ付、此度檀那場江家内安全のため順村致度段、右宿役人組合大惣代并助郷惣代方申出候間、至極承知いたし、依而者才領無之右獅子頭村送りを以巡村ニ相成候間、此段御承引御村々御名主中宅ニ而御受渡し昼夜ニ不限御巡村可被下候(後略)
安政五年九月八日 藤沢宿助郷会所
 ~藤沢市史料集17 相模国鎌倉郡小塚村「御用留」2

助郷とは、本来は宿場に備えた人馬により宿場間の輸送を担うところ、参勤交代が重なるなどして常備の輸送能力を超えた際に、近郷の農民に応援の人馬を提供させる制度です。その助郷の調整をする役所からの、「悪病流行致候」ゆえ、悪魔払いの霊験ありとされる古くから伝わる獅子頭を、藤原宿から近隣の村々へ巡行させるというお知らせです。「悪病流行致候」とあるだけですから、実際に感染者や死者が出ていたかどうかは伺うことができません。
藤沢宿にある荘厳寺には、過去の災害について記された過去帳が残されています。

七月下旬ヨリ関東筋、変病流行致シ数万人死ス、就夫白旗大明神八月中旬ヨリ九月二八日迄、御仮谷下遷座昼夜信心、依其加護当宿格別之変病人モ無之候、右為後代記置者也

昼夜信心のおかげで、霊験あらたかに藤沢宿を変病から守ったとされる白旗大明神は、現在は白旗神社と名乗っています。

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「白旗神社」 ~神奈川県藤沢市藤沢

創建については伝わっていませんが、鎌倉時代までは寒川神社を名乗っていたそうです。鎌倉時代、幕府将軍にして兄である源頼朝に追われ、奥州で自害した源義経の首を、首改めの後にこの地に埋めたと伝えられます。以来源氏の旗印である白旗にちなみ、白旗神社を名乗りました。また白旗神社には湯立神楽という神事が伝わっています。煮立った湯に笹の葉を浸し、参詣客の上に振り撒いて無病息災を祈ります。

荘厳寺の過去帳では、「当宿格別之変病人モ無之候」とありますが、神奈川県史が引用している「藤沢沿革考」には「莎腸病発行シ(ママ)死スル者百四十九人、俗ニころりト称ス」と記されています。「藤沢沿革考」は明治29年に、藤沢宿の大久保町の駅長を勤めた堀内悠久の息子堀内松麿が、堀内家に残る史料からまとめた藤沢の近世史です。ただリアルタイムの記録でないこと、本人も序で「吾家幸ヒニ多少保存ノ薄書アルモ、復其九牛ノ一毛ニ過ギズ。況ンヤ其坂戸町ノ事ニ至リテハ、全ク之ヲ詳述スル材料ヲ失ヒ、甚ダ遺憾ナリトス」(藤沢市史料集12 堀内家御用向手控・藤沢沿革考)と述べているように、正確に把握できているのかは疑問です。それにしても149人は人口の3パーセント以上にあたり、甚大な人的被害になります。同じ宿内寺院の過去帳の記録との齟齬はあまりにも大きく、実際の被害状況としてどちらがより事実に近いのかは、判断に迷うところです。
実際の被害はどうあれ「太平年表録」に見られるように、小田原や三﨑、浦賀の惨状はいち早く藤沢の人々にも伝わり、住民たちは不安を感じて神仏に頼っていたことがわかります。中でも「大山不動尊へ誓をかけ」とあり、小田原宿では裸参りが行われた大山不動尊について、ここで少しふれておきましょう。藤沢は東海道から大山へ向かう道の、分岐点にあたりました。

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「大山阿夫利神社」 ~神奈川県伊勢原市大山

大山は神奈川県の中央部にある、標高1,252メートルの山で、江戸時代以降関東に広く広まった大山講で知られています。今では大山詣というと、こちらの阿夫利神社が表に出ますが、元々霊山寺、石雲寺、大山寺を中心とする修験道の地でした。時として武装し、秀吉の小田原攻めの際は北条側に加担しました。それにより徳川幕府に警戒され、大山を純粋な信仰の場とし、大山寺に祀られる不動明王と、山頂の石尊大権現の霊験を広める地道な布教に限るようにしました。この時修験者や妻帯僧は下山のうえ還俗させられ、各地に講を広めたり、講の信者を宿坊に迎え、山頂まで案内する御師となります。

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「大山寺」 ~神奈川県伊勢原市大山

太平の世となると、大山講は信仰ばかりでなく、次第に行楽的な色彩を帯びてきます。江戸から近く、二三泊で訪れることができ、関所も超えないので手形がいらないこと、風光明媚で気候も温暖、鎌倉、江の島など近くに併せて訪れることのできる行楽地があることから、ちょっとした観光地となっていきます。とくに大山不動尊と江の島弁財天を抱き合わせた行程は、ゴールデンルートとなりました。

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「四谷不動 大山道標」 ~神奈川県藤沢市城南

各地の拠点から大山に向かう道路が整備され、大山街道沿いには道標が建てられます。藤沢は東海道から大山、江の島それぞれに向かう分岐点にあたり、大山詣、江の島詣双方の客でにぎわったようです。藤沢側から大山に向かう街道の始点が藤沢の四ツ谷で、延宝4年(1676)に建てられたお不動さんが鎮座する道標が、今も道中安全を見守っています。

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「歌川広重 東海道七 五十三次之内藤沢(蔦屋版)四ツ谷の立場」

四ツ谷には茶屋が立ち並び、大山詣の参詣客で賑わいました。その様子が歌川広重の描く浮世絵に残されています。お不動さんも左隅に描かれています。なお作者の歌川広重は安政五年九月亡くなっていますが、死因はコレラ感染であったと伝えられています。

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「大山道鳥居」 ~神奈川県藤沢市城南

お不動さんのすぐ近くに、鳥居が昭和34年に再建されました。阿夫利神社の一の鳥居とされます。 
明治の廃仏毀釈により、大山不動尊信仰は大きな打撃を受けます。現在の阿夫利神社の位置にあった大山寺は打ち壊されますが、なんとか麓に近い位置に再建されました。一方石尊大権現を祭神とした阿夫利神社は独立し、現在の祭神は大山祗大神となっています。

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「江の島弁財天道標」 ~神奈川県藤沢市藤沢

ゴールデンルートの片方、江の島弁財天への参詣道も、藤沢が基点になります。克ては江島神社の一の鳥居が現在の藤沢橋の袂にありましたし、江の島への道標も、藤沢市内の各地に残されています。こちらの道標は、もともと藤沢市役所の敷地内にありましたが、区画整理に伴いこの地に移転しました。

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「江の島一ノ鳥居跡」 ~神奈川県藤沢市藤沢

この辺りの情景も、歌川広重の浮世絵に残されています。

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「歌川広重 東海道五十三次 藤沢」

左手に描かれているのは大鋸橋で、現在は遊行寺橋と名を変えましたが、同じ場所、同じ橋幅に架けられています。

さて藤沢の町を離れ、次回は戸塚、保土ヶ谷、神奈川へと歩を進めるところですが、何度か触れたとおり三﨑、浦賀での感染の広がりを無視できないので、少し寄り道することにします。


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