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海の見る夢 №18 [雑木林の四季]

       海の見る夢
          -父のラブレターー
                                    澁澤京子

 秋になって父の食欲が急に衰えて、呼吸も苦しくなってから一週間くらいたったころだろうか、私たちが夕食を食べている間に父は亡くなった。母が亡くなってから11年目。

母は、家に閉じ込めておいたら窒息死しそうな人で、家にいるときは、ジャージパンツに着古したTシャツの格好のまま、死んだ魚のようなどろんとした目をしてよくソファに横たわっていた(母は家事が苦手だったのだと思う)・・その逆に仕事や外出の用事がある時は、目はイキイキと輝き、紅い口紅をさし、歌うように「パパ、行ってきまーす!」と飛び出るように家を出るのであった・落差の激しい人だったのである。

母には人見知りな一面もあったけど、仕事柄、交友関係も広くて友人も多かった。仕事をやめてから、家に閉じこもりがちな父にとって、母は明るい大きな窓のような存在だったと思う。母は喜怒哀楽の激しい性格だったけど、誰に対しても公平でオープンな、明るい正直な人だった。一人っ子だったせいか、ロマンティストで気が若くて、私が家に連れてくる友人たちとは何の違和感もなく溶け込んで楽しそうにおしゃべりをしていた。母の芝居関係の友人は若い人が多かったし、母は若い女の子や男の子とおしゃべりしたり笑ったりするのが好きだったのだ。

母が亡くなったのは夏だった。心臓の手術が成功して順調に回復していたので、うれしくって、病院の帰りにバーゲンで私はオレンジ色のワンピースを買ったのを覚えている。歓びもつかの間、翌朝病院からの電話で起こされた、母は意識不明になり、そのまま亡くなった。母は心臓病で意識を失って死にたいとよく言ってたので、一応願いはかなったのだ。同じ心臓でも、父のほうは苦しんだので、最後はずいぶん痩せてしまった。

父が亡くなってから身の回りを整理していたら、父が肌身離さず持っていた何冊かの手帳に、俳句や詩がびっしりと書かれていた。特に母が亡くなったころに作った俳句が一番多い。母が亡くなってから、父は母の話をほとんどしなかったが、密に手帳に自分の思いを吐き出していたのだ。

ただいまと 弾む声なく 秋夕昏
待つことの 多かりし日に 残さるる

テレビの前には、父のお気に入りの茶色の皮の安楽椅子があって、その椅子とほとんど同化しているかのように父はいつも坐って母の帰りを待っていた。母が亡くなった後は「ゴドーを待ちながら」のようにただひたすら待ち続けていたのかもしれない。

ある時、じっと安楽椅子に座っていた父が「こうやってじっと坐っていると、なんだかネガティブな思いが次々と浮かんできてつらいんだよ。」と私に訴えたことがあった。そこで、「頭の中を無にして、呼吸を数えるのよ。」とアドヴァイスすると、暫く目を閉じて瞑想していたが「ダメだ、余計、頭が混乱してきた・・」と言って瞑想をやめたことがあった。父のように、家にずっといて椅子にじっと座ったままでは、否定的な暗い想念も次々と浮かんできてさぞ辛いだろう、しかし、父が自分のネガティブな想念を「妄想」と判断できたのは、父はまだ自身の思い込みを疑う「理性」を持っていたのだと思う。

人と人 ジグゾーパズルに つながれて

人と人の出合いも別れも、ほんの些細な偶然の積み重ねによって起こる。欠けた一片のピースの代わりは誰にもできない。おそらく父は、どんなに留守番させられても、母のことは欠点含めてすべて好きだったのだ。運命的な出会いのように、実は、誰しも最も自分にふさわしい場所にいるものだし、その都度、最も自分にふさわしい人間に出会っているものだと思う。人生は、精巧なジグゾーパズルのようなもので、人間の意志だけじゃない、遥かな大きな力によって動かされているような気がする。

私が結婚するとき、父に「夫婦は、なんでもあけすけにするものではなく、御互いにプライヴァシーを持って、御互いのプライヴァシーを尊重し合う方が逆にうまくいくものだよ。」と言われたことがあって、その通りだな、と思う。(私は結局離婚したが)これは、家族でも恋人でも友人同士でも、人と人には適切な距離が必要で、相手の「わからない」を尊重する気持ちは、人間関係ではとても大切だと思う。

たった一人でも信頼できる友人を持っているという事は、たとえどんな状況でも世界を信頼することができるということであって、いい友人というのは世知辛い世間との間のクッションになってくれるし、家族という閉鎖的な世界から開放もしてくれる。友人との信頼関係は人をのびのびと明るく自由にするものだ。

父の手帳は、ページを追うごとに、「死」を連想させる暗い俳句が多くなってくる。

冬布団 骨の形を くるみけり
遠くより 我呼びかくる 声のあり

そして手帳の最後に、やや乱れた字で詩が書いてあった。(父は寝たきりになる前から手がふるえるので字をかくのが困難になっていた)

  誰もいない山間の
  小さな駅に降りたなら
  待合室の片隅で
  影のように
  あなたは待っていてくれるだろうか
  この世の私を

    花の散りゆく山里の
  川のほとりの木陰に
  人知れず
  風のように
  あなたは待っていてくれるだろうか
  この世の私を

  灯りのにじむ
  街角の
  古びて朽ちたティールーム
  昔のままのボックスに
  香のように
  あなたは待っていてくれるだろうか
  この世の私を

この詩で手帳は終わっていた。この後、父はもう俳句も詩も書いていない。

父の俳句と詩の、一番良き読者であり、また的確な批評のできる人は母しかいなかった。だから、この小さな手帳にびっしりと書かれた俳句と詩は、父から母へのラブレターのようなものだったのだ。
感想を言ってくれる母がいなくなって、父はどんなに寂しかっただろう。

かくれんぼ 一人ぼっちの 鬼となり

父の胸の奥底には小さな母の部屋があって、小さな母を支えとして11年間、不自由な身体に耐え抜いて生きた父。たとえ胸の奥でも、愛する人がいるということは人を強くする。胸の奥底にいる母に時々問いかけることによって、父は長い間、正気を保つことができたのじゃないかと思う。父は気が弱くて人に流されやすいところがあったけど、母は決して人に流されない強い人だったし、父よりも、人のことがよく視えるところがあった。

父が亡くなる日の朝、妹は、父が「ママがいる・・」とつぶやくのを聞いていて、長い事待っていた母が迎えに来たのだろうか。

納棺式には、父の好きだったジプシー・キングスの『インスピレーション』をかけた。妹によると父はこの曲を聴きたくて「鬼平犯科帳」をよくみていたそうだ。南米音楽のミュージシャンだった叔父とは兄弟仲が悪かったけど、実は父も結構ラテン系の音楽が好きだったのである。

焼き場からお骨と一緒に乗ったタクシーの窓からは、抜けるような秋の青空が見えた。

青空が 時空の果てに あるという      澁澤均


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