SSブログ

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №61 [文芸美術の森]

「月は闇を覗くために開けた穴」 2

      早稲田大学名誉教授  川崎 浹


 遺稿『ノート』 の中に増尾のアトリエで詠まれた月の一首がある。

  月うかぶ空のまことのむなしくも
  我が身のほどの思ひ知らるる

 この歌には「我が身のほど」という万感の思いがこめられているが、これは《月》の絵とはちがい、月そのものではなく、空に浮かぶ月を見てもむなしいと思う意識が前面にでている。月は「空のまこと」(宇宙の真諦)の構図のなかに位置を占めながら、なお「我が身のほど」を思い知らせる鏡としてある。《月》の額縁の裏側に背を向けて貼りついているのがこの和歌の月といえるだろう。
 したがって絵の《月》は和歌の月と背中合わせにある。和歌の人間的な詠嘆をふり捨て、一心に措いたのが絵の《月》である。遺稿『ノート』には私のいう「一心」を説明する書きこみがある。

   四曼を一にして表はす、それを寫実といふ  四曼とは四種皇茶羅(ししゅまんだら)。皇茶羅とは宇宙の構造を目で見ることができるように諸仏の姿を 配置したイラストである。ここから野十郎は宇宙を見る方位を基本の四つから一つにまとめて絞りこむのが自分の写実の方法だと言っている。
 さらに空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』には「仏心は満月のごとし」という言葉があり、画家の「心の写実と、月という対象がここにおいて一致する。「仏心は満月のごとし」とは単純なだけに印象に残る言葉で、早くから画家の念頭にあったかもしれない。
 しかし私は《月》の絵に仏教観を読みとろうとしているのではない。逆に「闇を描く」画家の発想にこそ科学者風の独創性があり、新しい画境と同時に画家が内在的にかかえていた真実の顕現が見られると言いたい。
 闇を描こうと思い立ったときに、闇を追求していく段階は、闇を闇たらしめる円光の大きさや型、月や月暈(つきがさ)の光度を決定するプロセスと表裏の関係になる。
 同時に月は最初は闇を覗く穴だったが、何ものかによって奥底から、見る者を覗きかえす、眼差しの光を放ちはじめる。そして最後に闇を覗く穴は闇の底から湧きでる原初の生命の光へと反転する。
 光の円の位置とサイズと闇の色の決定は野十郎の計算をこえた直観によるものだろう。
それはかれが生涯「研究」してきた美学の総決算であり、月と夜空はどちらが離れても存在しえない相即の関係にある。
 一九一七年、十月革命前後のロシア・アヴァンギャルド。そのなかのマレーピッチの円の抽象画はいわば歴史的な遺産となっている。私は野十郎の月を見るとマレーピッチの円を思いだすが、そのマレーピッチになくて野十郎の円にあるのは荘厳さである。
 野十郎は月を「闇を覗くための穴」と説明したが、それ以上のヒントはあたえてくれなかった。したがって、これをいま仮に「慈悲」の光と呼ぶとすれば、《月》はやさしく人を癒し、しかも殆ど冷酷と言っていいほどの孤高を保っている。その意味では《蝋燭》ほど見る者に親しくもやさしくもなく、凛然として宙にあり、他者の接近や解釈を許さない。
 かつて野十郎はラスキンの芸術経済論に触れながら、芸術家の「モデレートな生活」という言葉を引用している。生活同様にかれの絵のサイズもモデレート、つまり適度に控えめで、決して大きくない。
 《月》もまた四一・〇×三二・二の六号の大きさにすぎないが、長い間見つめていると、しばしばこの絵が四倍位の大きさに見えてくることがある。蒼々と深い宇宙がさらにひろがる。なぜそうなるのだろうかと不思議に思っていると、ある日同じように大きくなった月の球がぽろりと額の外の宙に浮いて出た。この信じられぬ浮遊感はわずかの間に消えた。
 《蝋燭》もそうだが、《月》もまた毎日刻々と姿を変えてゆく。画家という人物もそうだ。現在進行形でつねに恒久的に変奏される。それを捉えて文字に固定するのは大変な作業だ。私は年ごとに高島野十郎の年齢に迫っているので、確実に画家の意識や視線に接近しているはずなのに、実際にはかれの実像はますます私から遠ざかる。私は空を昇りゆく或いは中天に宙づりの月をくり返し凝視する。野十郎の《月》をも限りなく見る。
 しかし高島野十都との距離は絶対に向かってといえるほどに広がるばかりである。「見る」とは距離を測ることだが、たえず距離がゆれるこの限りなく手に余る作業をここまで続けてこられたのは、だんだんと遠のきながらも高島さんと画家野十郎が二人して、果てしなき彼方から少しでも私を引っ張り上げようとしてくれたからだろう。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。